跳舞猫日録

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エレイン・コンスタンティン『ノーザン・ソウル』

エレイン・コンスタンティンノーザン・ソウル』を観る。いつもながら私の個人的な繰り言を書くと、私自身この映画のジョンとマットのようなボンクラな男の子だった頃があった。変わり者と呼ばれても自分のテリトリーを守り続け、マニアックな音楽に走りその趣味を極めようとする。あまつさえその趣味をなんらかの手段で広めよう、発表しようとありがた迷惑なことを考える(この映画の中のふたりはDJで、私の場合はミニコミだった)。なにが人をそうさせるのか。それは永遠の謎だ。ではこの『ノーザン・ソウル』で描かれる「永遠の謎」としてのDJは私たちを酔わせる類のものだろうか。


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時は1970年代半ばのイギリス。経済は相変わらず頭打ちのままで、国自体が低迷したムードに包まれていた。主人公のジョンは内気な男の子。憧れの女性に告ることもできず、変わり者と呼ばれて疎外感を感じながら退屈な日常生活を過ごしていた。彼はひょんなことからマットという男の子と出会う。マットを通じて彼は「ノーザン・ソウル」というソウル・ミュージックを知る。退屈な生活を一新させるクールなソウルのサウンドにジョンは夢中になり、ふたりはクラブを経営しより広く彼らの趣味全開のクールなサウンドで人々を踊らせようと闘志を燃やすことになる。だが、それは(言うまでもないが)そう甘い道のりではなかった……というのがスジである。

DJを描写する、というのはなかなか難しい。というのは、DJがやっていることと言えばただレコードを回すことだけだからだ。いや「そんな単純な話じゃないよ」と言われるかもしれない。レコードを選ぶのだって、絶妙なタイミングを狙ってかけるのだって、観客の踊り具合に応じてセットリストを構成するのだって並大抵のことでは務まらないよ、と。それはそうなのだけれど、ロックバンドの演奏のような華々しい「動作」を撮れるわけではなく全ては「レコードを回す」という地味な作業を映すことに落ち着いてしまうという点は動かない。DJの知能犯的なプレイの醍醐味など、映画では表現のしようがないのだった。

故に、この映画のジョンやマットのDJのプレイもなんの工夫もなくただノーザン・ソウルの音源を流すだけという、そんな次元に落ち着いているように思われた。それ故にどこかこの映画のクラブのフロアの光景は盛り上がりというか精彩を欠く。もっとオタク的な些末な情報を散りばめてこちらを圧倒させるマニアックな遊び心があってもよかったのではないか、と思う。これでは悪い意味で間口が広いというか、水で薄めたようなマニア心の発露に終わってしまっているように思う。肝腎のノーザン・ソウルサウンドが半端なくカッコいいだけに、余計にこの工夫のなさが残念に思われた。

そうした音楽に愛情があるんだかないんだか(もちろんありすぎてマニアックに走るのも興醒めなのだけれど)わからないこの映画の弱点は、そのままこの映画の設定の弱点ともつながっているように思う。簡単な話で、この映画では事態の深刻さがイマイチ伝わりづらく感じるのだ。なぜジョンとマットはアメリカに憧れるのか? 彼らは普段どんなことを考えてなにを目的に生きているのか? そういったことが見えない。キャラが立っていないというか、彼らを突き動かす人間臭い情念が見えない(それは単純に「エッチしたい!」という類のものでもいいのだ)。結果として彼らがなにを考えているのかよくわからないままで終わっているように思う。

つまり、人間が描けていないということになろう。それならそれで音楽のカッコよさで牽引する路線を歩んでもいいと思うのだ。だが、音楽に関してもマニアックな扱いから来る「濃さ」が感じられず薄口でまとまっているように思う。結果として全てがどこか物足りない、淡白な映画で終わってしまったように思われて残念だった。しかしこの映画を通してノーザン・ソウルサウンドに触れられたのは収穫だったので、駄作・愚作と斬って捨てる気にもなれないのが困ったところなのだった。音楽が好きな人なら楽しめるかもしれないが、楽しめないとしてもそれは音楽がわかっていないことにはならない映画であるとも思う。