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Back To Reality

2022/03/01

note.com

こんなnoteを読んだ。私は英語と日本語しか話せない。そんな狭い見識でも語ることを許されるとしたら、私が言えることは「言葉は身体で話すものである」ということかもしれない。私はいちいち「この言葉は英語でどう言うのだろう」と考えたりしない。いや、昔は考え考えしゃべっていてつっかえていたのだけれど、今は考える前に自然に英語が出てくる。自分の頭ではなく自分のハートというかソウルがしゃべっているという実感がある。裏返せば、ハートやソウルにしゃべらせれば英語は意外と流暢に出てくるものではないか、とも思う。ただ、そこに行き着くまでには練習/学習が必要かな、とは思うにしろ。

久しぶりに映画を観た。エレイン・コンスタンティン監督『ノーザン・ソウル』。私の学生時代を思い出させる映画だった。変わり者と呼ばれる偏屈な人間なのに、あろうことかその己の趣味を誇示しようとすら考えて発表を試みる(映画では主人公はDJを行い、私はミニコミを作ったっけ)。映画自体は感心しなかったがしかしノーザン・ソウルという音楽の旨味を教えてもらえたのは収穫だった。時間が撮れたらそろそろ映画鑑賞を再開したいと思う。濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』が気になっているのでそれを観てみたい。

「みんなが」戦争について考えなければならない、と断じるのはある種のファシズムでさえある、と私は思っている。戦争に関心がない、と語る人が居てもそれはなんらおかしなことではない。それを踏まえた上で言えば、私は一見すると戦争とは関係のない日常生活もある意味では繊細な政治の産物であると思っている。遠くの国々で生み出されたものが私たちの生活を成り立たせており、私たちの経済活動がグローバルに作用している。日常の中のそんな政治性に鋭敏であろうとする感性は大事にしていたい(戦争に関心がない、と語る人は本能でそうした「日常の中の政治」を勘付いているのかもしれない)。

英語を話すことに資格なんて要らない。好き勝手に書きたいことを書けばいい(責任を負うことさえ忘れなければ)。そう思って私は毎日毎日日本語と英語で好き勝手に書きたいことを書いている。こんな破廉恥/厚顔無恥なことができるのも多分私は自分のことが好きだからだ。そして、私は「自分のことを好きになってもいい」と英語学習の過程で学んだのだと思う。私はビル・ゲイツでもマーク・ザッカーバーグでもない。ただの凡人だ。だが、凡人なりに生命を燃やして生きている。そう思うと自分のことが(たとえ少しであっても)愛おしく思えてくる。そんな愛おしい自分のハート/ソウルに、今日も私は英語をしゃべらせる。