跳舞猫日録

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ミヒャエル・ハネケ『隠された記憶』

ミヒャエル・ハネケ『隠された記憶』を観る。ハネケ監督は語り口の選び方に対して極めて繊細な人物であると思う。それは他の作品を観ても時に過激な断片を撒き散らす方向に向かう『71フラグメンツ』や、あるいはスマートフォンでの撮影を映画の中に取り入れた『ハッピーエンド』といった形で結実している(『ハッピーエンド』は『隠された記憶』より後の作品なのだけれど)。別の言い方をすれば、ハネケという人は多分カメラのフレームの中になにかを取り込めばそれで語ったつもりになれる、そんな鈍感さとは無縁の人なのだろうと思う。さて、このデヴィッド・リンチロスト・ハイウェイ』と同工異曲の作品では一体なにを語っているのだろうか。

何不自由なく暮らす一家が居る。父親はテレビにも出る文化人で、母親は楚々としたビジネスパーソン。そして子ども。そんな幸せな彼らのところに悪戯心なのかビデオテープが送られてくる。そのビデオテープには彼らの生活をまさしく「監視」する誰かの存在が在ることが綴られていた。テープに映った映像を手がかりに父親はとある人物の所在を突き止める。その人物は父親に対しては怨恨を抱いており、従って動機は充分にある。だが、それは彼らが子どもの頃の些細な出来事が原因であるに過ぎなかったことだ。しかも、その人物は遺恨は認めるがビデオテープに心当たりはないと言う。どこまで信じればいいのだろう?

幸せそうな家庭も一皮剥けばそこには秘密や謀略が存在する……なんてことはこんな青筋立てて語るべきことではなく、ありふれた事実/真実であろう。だが、その事実/真実がありふれたものであるとしても、それが存在することで確実に怨恨や遺恨は新たなステージに達する。ハネケはこの映画で、私たちの周囲にそうした「秘密や謀略」から生まれる「怨恨や遺恨」が蔓延していることを映し出す。主人公一家とそれを憎む人物のみならず、この映画ではニュース映像が積極的に取り込まれホットな味付けが施されていることも見逃せない。その政治的な駆け引きがまさに別の形での「怨恨や遺恨」を再生産する――わかりやすい形で言うと無差別テロなどによってだ――という事実を提示する。

ハネケは一見するとそんなに派手に映画のストーリーを走らせていないように見せる。それは達人の将棋指しが奇を衒った手を使わないでじわじわと地固めをするのにも似ている。気がついてみれば、ハネケはこちらを絶望の中に叩き込んでいる。この映画はそんなハネケの洒脱なストーリーテリングや政治性(そう、ハネケの映画は立派に政治的だ)を見せてくれる逸品であると思う。ジャンクな「ビデオカメラで撮った映像」やニュース映像を作品の中に盛り込むことでカオスを生み出し、作品そのものを生々しくざわめかせる。そんな演出もキマっており面白く観られる作品に仕上がっている。

この作品に関してネタを割ると、実を言うとビデオの件はなんだかよくわからないままに終わってしまう。だが、それもハネケの怠慢などではなく計算の内だ。ラストシーンで、なにげない放課後の学校の玄関口の光景を長回しで映しているところで私は戦慄を感じた。この長回しは、主人公の父親を見舞った悪意が実は具体的な「誰か」から寄せられたものではなく、悪意そのものが現世界においては瀰漫している(つまり、誰でも「誰か」になりうる)ということを示唆したエンディングではないかと思ったのだ。私もまた誰かにとっての脅迫者なのか、と書けばおふざけがすぎるだろうか。

2度目の鑑賞になるのだけれど、ややもったりしているという印象は感じられた。その分うっかりすると「飛ばして」しまう重要な要素がストーリーの中には仕込まれているので、気をつけないといけない(主人公と母親の関係、等など……)。リンチは『ロスト・ハイウェイ』で、自分自身の中にある多重人格性について語った。だが、ハネケはこの自分の人格はひとつとして捉え、それが「隠された記憶」によって翻弄される存在として捉えている。同じ「ビデオテープ」から始まる話でも、蓋を開けてみるとこんなに微妙に同工異曲の作品ができあがるものなのかと思った。