夢を見た。私はバイト先のデパートで刺し身を作っている。刺し身をトレイに盛り付けなければならない。私はたくさんある、納涼をイメージした青いトレイに盛り付ける。案の定正社員の人が飛んできて、「仕様書に書いてあるとおり黒いトレイで作れ」と叱る。私は「このトレイが一番たくさん在庫があるんです。途中でトレイの在庫が切れたらどうするんですか」と抗弁するが、本部から視察に来た方の耳にも入り「勝手なことをするな」と叱られる。そこで目が覚める。なんだか嫌な思いが後々まで残った。ああ、そんな時代もあった……。
職場で昼休み、阿久津隆『読書の日記』を読む。すんなり活字が頭に入ってくる。阿久津隆は本当にいろんな本を読んでいる。ということは、自分なりの本の読み方を体得しているということだなと思った。もちろん、本はそこに書いてあることをただ読めばいいのだ。私もそうしている。だが、生真面目な読者はそういう「ただ読む」こと、吉田健一風に言えば「読むことで自足すること」から逸脱して読むものや読むことそのものになんらかの崇高な意義を見出そうとする。阿久津はそうした意義の前に、本の中に織り成されているテクストそのものに溺れようとしているという印象を抱いた。
四方田犬彦が「アニマとしての読書」を説いている。仕事や勉強で役立つから読むという建設的な(?)目的で読むのではなく、ただ楽しいという理由で読むことを薦めているのだった。私もその考え方を支持する。楽しいから。それだけで充分だ。だからこそ読んでも一文も儲からないフェルナンド・ペソア『不安の書』のような本を愛読する。阿久津の本に話を戻せば、阿久津にとって読書はただ心のアンテナに導かれるがままに読むという、なんともふしだらな行為である。私も読書に関してはもっとそうした「ふしだら」な態度を極めるべきかな、と思わされた。
夜、話題の濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』を観る。そんなに傑作だろうか、と首を傾げる。いや、いい映画なのだけれどこの映画よりも濱口の過去の『ハッピーアワー』の方がより生々しい印象を残す映画だと思った。もっとも『ハッピーアワー』の二番煎じではなくベケットやチェーホフを参照しながらこうした「喪失と再生」を語る叙事詩のような映画を作ったことは十二分に評価できる。私がまだ、この映画を評価できるレベルに達していないということなのかなと思った。なら、まずは村上春樹の『女のいない男たち』を読み返さないといけない。いや、いっそのことまた春樹を『風の歌を聴け』から読み返そうか。