跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/27 BGM: Depeche Mode - I Feel You

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』は、主人公ハンバート・ハンバートの独白という体裁を採っている。日本でもロリータ・コンプレックスロリコン)という言葉の発祥となったことで広く知られているこの作品は、確かにロリータという少女へのハンバート・ハンバートの思慕とそこから来る奇妙な日々が赤裸々に綴られた作品であり、読んでいて戦慄を感じさせると同時にどこか可笑しみもある深い作品だ。ハンバート・ハンバートは逮捕された身として己を半生を告白するのだけれど、一見するとその状況から見てハンバート・ハンバートは無力な身として見える。なにしろ逮捕された状態なのだから。だが、彼が書く・告白する物語が読者たる私たちを翻弄して揺さぶるという意味では私たちは彼の手玉に取られているとも言えるのだ。この奇妙な駆け引きが『ロリータ』を生々しくなまめかしい文学作品として成立せしめていると思う。それは単なるポルノグラフィーを超えた、読む・読まれるという関係とは何かにまで思い至らしめるものであると思う。

昨日書いたことであからさまにしてしまったのだけれど、私はロリコンとは正反対(?)の成熟した女性への思慕をつのらせている。英語でこれを「milf」という。どっちにしろリアルな女性から見ればひと言「世界中の女性はお前のママじゃない!」で終わる話なのだと思う。そしてそれは私とてわかっている……のだけれど、もう少し語らせてほしい。私は子どもの頃から女性に嫌われることが多かった。初恋なんてとんでもないことで、ばい菌がついているから近寄るなと言われ、今の言葉で言えば「キモい」と言われて……それでまともに恋心やリアルな女性の知識を得ることが適わなかった。今でも自分の中の女性へのイメージは歪んでいると自覚している。ああ、それをあからさまに書いたら救われるのだろうか。だが、それをしてしまうと、自分がどんなにおぞましい欲望を持っているか開けっ広げにしてしまうと、確かに救われるのかもしれないが失われるものも確実にある。両天秤にかければ私は失ってしまうものの大きさを恐れる。安吾に倣って、私はピエロとしての矜持を守りたい。

今になってこんなことを告白してどうしようというのだろう。子どもの頃に戻って人生をやり直すなんてことはできない。理想的な少年時代がありえたと思い込むあまり今の自分の人生を卑下したり、あるいは被害妄想(そう、まさに「妄想」だ)に陥ったりすることが賢明とも思えない。過去のことを思い出す。いじめに遭った自分の人生、あるいは上述した女性絡みのトラウマを植え付けられた人生を思い、自分を不幸だと思った……今、そんなトラウマを自分自身で治癒しようとして、京極夏彦の小説あるいはウィトゲンシュタインの哲学に倣った「憑物落とし」を自分に施している……あるいはフランツ・カフカがその一生を賭けて行った「書くこと」と同じことを自分はやろうとしているのだろうか。「ぼくは終末である。それとも始まりであろうか」、と書いたカフカ。私のこのなぐり書きも何かの始まりなのだろうか。

今日は早番だった。夜、いつものミーティングに参加する。そこでChatGPTについて学ぶ。私はこのChatGPTは少しだけ使ってみたことがあったのだけれど、ふざけて「神様は誰が生んだのですか」「1000年後の世界はどうなっていると思いますか」と質問して、しかしその答えが木で鼻をくくったような生真面目なものだったので(当たり前か!)興味を失ったのだった。なので新たに学び直す意味で有意義なものだった。テクノロジーの進歩について語り合い、そしてそれに私たちがシンクロしていくことで一方で失われるものについて(個人情報の保護、あるいは俗に言う「自分の頭で考える能力」などなど)も話が及ぶ。参加者の方々の博識に舌を巻き、私自身「たるんで」いられないな、と思った。私の発表が近々迫ってきているので、今度はいつも使っている(あるいはどっぷり「依存している」と言ってもいいのかもしれない)Discordについて話すことに決めた。