跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/29 BGM: My Little Lover - ALICE

読むことにかけてはおそらく自分は掛け値なしの快楽主義者なのだろうと思う。読んでいてつらくなるような本はいかに精神修養や教養のためとは言っても読む気がしない(だから森鴎外三島由紀夫もまるで読む気がしない)。自分が関心がある領域の本、読んでいて確かな愉楽を感じられる本に浸る。昔から私はそうした快楽に対して率直であり続けてきた。村上春樹ノルウェイの森』を10回ほど読んだのも、それがエラいからというわけではぜんぜんない。ただそうすることが私の魂にとって必要なことだったからであり、つまりは私はそれだけ脆弱な心の持ち主なのだと思う。今日は早番だったのだけれど、帰宅後何か本を読もうかと思って改めてナボコフ谷崎潤一郎金井美恵子といった作家の本を手にしてみた。いずれ劣らぬ立派な言葉の魔術師の仕事だ。だが、受け付けなかった。まあ、そういう時もある。読める時が来たら思いっきり、金井美恵子の大長編に浸って我を忘れたいと思った。このせせこましい自分自身を忘れて作品の中に溶けていけるのが読書の醍醐味だ。

思えば子どもの頃からそうして読書に耽ることを至上の快楽とする自分が居たことに気づく。とはいえ読書の来歴を省みてみると実に不器用なもので、ドストエフスキーフローベールを読んだのも40代になってからだったしぜんぜん大したことはない。まだまだ読めていない本、知らない作家だってある……過去に東欧文学のアンソロジーを読んだ時、そこに書かれている広大なスケールの物語に触れたことで自分自身の悩みが小さいこと(裏返せば世界が実に広いこと)を知った。悩みが文字通り「溶けていく」ような感覚さえ感じた。私にとって文学を読むとは、ひとつにはそうした「救済の技法」(平沢進)なのだと思う。ただ、今直面している悩み――あけすけに言えば「性」にまつわる問題――はむしろそうして何かを読めば読むほどこんがらがってしまう類のものなのかもしれない。だけど、何も読まなかったとしても膠着状態に陥って固まってしまうとも思うのでムダな抵抗を続けている。

Discordでまた文学関係のサーバに入った。ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』について話す。車谷長吉だったか、文学について語ることは猥談に似ていると言っていた。確かに自分自身がどんな作品に救われてきたかをあられもなく語ることは、自分自身の弱さや歪みを語ることにも通じて恥ずかしい……手持ち無沙汰になり、金井美恵子を少し読む。ああ、高校生の頃初めて彼女の作品と出会った頃に圧倒されるばかりの読書を味わい、打ちのめされたものだ。読むことは時にそうして、「圧倒される」「負ける」「打ちのめされる」ことにも通じて危険なことでもある。このせせこましい自分、中途半端に完成してしまった自分自身をぶっ壊されることにも通じるのだから。だが、フランツ・カフカに倣って「書物は我々のうちなる凍った海のための斧なのだ(A book must be the axe for the frozen sea inside us)」という真実を受け容れる勇気を持ちたい。

結局私はいい歳こいても読書にうつつを抜かす、ただの「ろくでなし」(福田和也)なのであって……だけど今日もFacebookで実にありがたいメッセージをいただき、しっかりしないといけないと思った。過去にネットで自殺願望や救済を求める心、「死にたい」「助けて」という率直すぎる気持ちをあからさまにして、結局人を疲れさせてしまったことを思い出す。さすがに同じ失敗はしたくない。助けを求める勇気も必要だが、恥知らずにはなりたくない。自分自身にとって効いてきたさまざまな方策を今一度試してみる。今度はナボコフの『青白い炎』を読んでみるのはどうだろう……ふと思ったのだけれど、この日記は女性からも多く読まれているようだ。しかもあたたかいコメントまでもらえている。子どもの頃のトラウマから私はついに逃れられないので、自分自身の中で例えば同僚の方のおしりについ見惚れてしまう自分を「汚い」と思ってしまっているのだけれど、それでも許されているということなのだろうか。いや、こんなことをことさらに書くことこそ「臆面もない」「恥知らず」ということかなとも思うのだけど。