今週のお題「何して遊ぶ?」
今日は遅番だった。午前中、金井美恵子『ピクニック、その他の短篇』を読む。いつも読書中は音楽を聞くのだけれど、ふと今日はオアシスの「Champagne Supernova」を聴いてしまった。知られるようにこの曲は波が砕ける音から始まる。その音を聴き(金井美恵子の小説を読んでいて甘美なノスタルジーを味わっていたことも由来してか)、ふと海に行きたくなった。だが私の住む町は山の中にあるので海なんて行けるわけもない。海か……藤沢周のエッセイに思い至った。彼は青年時代、海を見に行く生活をしていたという。そこで泳ぐわけでもなく、何も目的を持たずただ海に行きその広大さに圧倒されるだけ、という時間を過ごしたと。ならば私は山を見に行こうか、と思い至った。せっかくこんな山々に囲まれた土地に住んでいるのだ、山を見てその自然に藤沢周よろしく圧倒されたい、打ちのめされたい……そう思った。ここ最近自分は本を読みすぎ、せせこましいことを考えすぎているのだ。森林浴もいいだろう。
オアシスを聴き、そしてそこで展開される「ストレートな」サウンドに浸る。自分は結局ニルヴァーナやブラー、オアシスやレディオヘッドの世代を生きているのだな、と思った。それをみっともないと思っていたこともあったっけ(なぜかはわからない。ただ自意識過剰だったのかもしれない)。だが今はそれを隠したくない。上の世代からはさんざん「どこがいいんだ」「クズだ」と言われたものだけれど、でも私にしてみればデーモン・アルバーンやノエル・ギャラガーといった人たちの賢さや勇気から多くを学んだことは明白な事実だ。そして、そのことがあるので私は新しいものに対して闇雲に「クズ」とレッテルを貼りたくないのである。たとえそれが私からしてみれば何かの焼き直しにしか見えないとしても、新しい世代からすれば切実な表現なのだ。その切実さを汲み取りたいと思う。こうした歩み寄りが心のゆとりを生み出したらいいな、と思う。
大学を出た後この町に帰ってきて……当時は「こんな不毛など田舎で、何も面白いことも味わえずに死んでいくのか」と敗戦処理・残務処理的な心境に陥り、それゆえに浴びるように酒を呑んだものだった。だけど、「さすがにこんな呑み方をしていたらダメになってしまう」と思ってググって断酒会を知って、その後発達障害を考えるミーティングに参加したり国際交流協会の活動に参加したりするようになって……そして断酒が叶った。英会話教室にも通うようになり新しい人たちとの出会いも日々実現している。この町にも「Uターン」で都会から引っ越してきて住み着く人たちが増え、その人たちもある種「町おこし」的なことを試みておられるようだ。「意思あるところに道あり」というが、何か面白いことを始めようとしたらそれが人を集めたりあっと言わされるようなことを起こしたりするものなのかもしれない。私もこの日記を通してずいぶんいろんな人と出会った。そしてこれからも人生はつづく。佐野元春に倣って「Beat Goes On」。
昼ごはんを食べた後、ふとフィッシュマンズを聴く。彼らの熟達した演奏に改めて感服する。私自身、金井美恵子やフィッシュマンズからは技術を磨くことの大事さを学んだつもりである。個性を磨くのではなく技を磨く。そうすると個性は自ずとその磨かれた技に伴って発揮される。だから心配しないで日々本を読み、英語でメモを書きあれこれ考える。今日も英語でメモを書いた。MeWeで、「英語がうまくなりたいのですが」と質問した方を見かけた。私はこれに関して確かな答えを持っていない。だが、言えることは日々練習すること、そして確実な己の成長を信じることではないかと思う。英語を話すことはワンフレーズ、ワンセンテンスが人に通じることを確かめることであり小さな達成の連続だ。その達成を確かめることが自信を得る過程の積み重ねにつながり、必然的に自信をつけてくれる。その自信を得る過程が成長につながり、英語的成長を通して人間的成長へと至れるのではないか、と……あくまでこの私から見た意見でしかないが、そう信じる。