跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/13 BGM: Sunny Day Service - サマー・ソルジャー

今日は早番だった。朝、戯れにフリッパーズ・ギターを聴き返す。高校生の頃、私はこのフリッパーズ・ギターを何度も何度も聴き込んで過ごしたことを思い出す。彼らは端的にかっこよかった。彼らはファースト・アルバム『Three Cheers For Our Side 海へ行くつもりじゃなかった』で流暢な英語を使いこなして歌っている。洋楽から得た影響をそのようにして軽々と自由に自家薬籠中の物としているところがクールに思われたのだった。まったく斬新なことを颯爽とやってのけて風穴を開けた、と言っても過言ではない。そして、彼らのそのような洒脱でオシャレな佇まいが私自身の田舎者としてのコンプレックスをくすぐったようにも感じられたのだった。どうして自分はこう「イモ」なのだろう、とさえ思われて……でもそれは皮相な見方でしかなかった。彼らから学ぶべきは「自分自身であり続けること」こそがクールだということではなかったかと思う。彼らは自分自身に忠実に音楽を追及し、それが結果としてあのような音楽性に結びついたのだと思うからだ。

ああ、私自身ずいぶん「彼らがうらやましい」と思ったりもしたっけ……英語を流暢にしゃべれる彼らの知的な佇まいがほんとうにクールに映ったからだ。そう、かつては私もそのようにして英語に関して非常に奥手で、「こんな私の英語が世界に通用するわけなんてない」「こんな田舎者の自分の英語は端的に恥ずかしい」と思っていたりもしたのだった。今思えばバカらしいことだと思う。臆せず、勇気を出して英語で表現すればよかったのだ。ほんとうに言いたいことがあるなら言ってみる。そこで恥をかくことだって山ほどあるだろう。だが、ともかくも恥をかいたとしても頭の中でうんうん考え込んで鬱屈した時間を過ごすよりは生産的なアクションになるかもしれない……と書いて、こんなことを書く私がいることに私が驚いてしまう。人は変わるものだ……それはそしてほんとうに信頼できる人との出会いによって変わったのだと思う。MeWeやリアルで「あなたの英語はクールだ」「英語がきれいですね」と言われたことがきっかけで、英語でおっかなびっくり表現を始めて……そして「ズブズブ」と英語の「沼」にはまっていった。この「沼」と向き合って自分の人生は暮れていくのかもしれない。

間違えないでほしい。私は確かに日々こうして英語で表現しているのだけれど、日本語より英語のほうが絶対的にすばらしいと思っているわけではない。逆もまた真なり。日本語には日本語のすばらしいところが数多とある(英語は論理的に明晰な言葉と言われるが、私は日本語でだって哲学的なことやその他ロジカルな仕事をこなすことは十二分に可能だと思っている)。谷崎潤一郎中上健次村上春樹金井美恵子多和田葉子を日本語で読めることは幸せなことだ。あるいは日本が島国で閉鎖された環境だからなのかもしれないが、英語を使うことに過剰なコンプレックスがあるのではないか。だからこそ日本社会には面白くもストレンジな英語が氾濫する。J-POPの世界然り、「Go To Eat」に代表される日常会話然り。いや、これを鬼の首を取ったように「だから日本人は愚民なのだ!」とあげつらうつもりも毛頭ない(海外でだっておかしな日本語は散見されうるのだから)。私はただ、そうした思い込みを取っぱらって英語を使うことを薦めたいだけだ。

英語をしゃべれないとグローバルな国際社会では通用しない、と人は言う。だが私は、そうした「公的抑圧」に惑わされることが大事なことを見失わせることを危惧する。私は英語を学ぶ上で、それが「楽しい」から学ぶのだという原理原則に立ち返りたい。「楽しい」から、さまざまなことを教えてくれるから学ぶのである……あるいは「そんな『のんき』なことを言っていられるなんて、ずいぶんハッピーな身分ですね!」とイヤミを言われるかもしれない。生き残りをかけて英語を学んでいる人からすれば私の英語学習なんて「お遊戯」でしかないだろう……だが、ならば私はその「お遊戯」を追及して生きる、と言うしかない。「これが私の生きる道」なのだ……そして、私はこうして一生「のんき」に生きるのだろうなと思う。ビジネスの世界で世界を相手に24時間戦う、といった生き方とはまったくもって無縁に遊び呆けて好き勝手に生きる。好き勝手に、フリーに自分が信じたことを貫く。フリッパーズ・ギターから学んだことも結局はそういうことなのだと私は受け取っている。