跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/02 BGM: 佐野元春 - 経験の唄

今日は早番だった。昼休み、いつものように英語でメモを書く。ふと、「どうして自分は英語を勉強するのだろう」と考えてしまった。これに関して、私ははっきりした目的や方針を持っていない。別段私は仕事で役に立つから英語を学ぶわけではないし(たぶん上司からすれば、前にも書いたが私の英語学習は日曜大工や釣りのような「変わった趣味」でしかないだろう)、資格を取りたいとも思っていない。海外に旅行に行くプランも立てていない。こんな言い方をすれば問題があるとも思うが、強いて言えば私の英語学習は「暇つぶし」というのがしっくりくるのかもしれない。「暇つぶし」。それは深沢七郎が「生きているのは暇つぶし」と言い放ったのと同じようなものだ。ただ他に有意義な時間の過ごし方を知らないから、あるいはそうすることが自分自身にとって最高の「気散じ」(パスカル)になるから……あるいは、私が多大な影響を受けた宮台真司の思想に倣って言えば快楽の「強度」を得られるから。平たく言えば「楽しいから」。だから英語を学ぶのである。

楽しいから学ぶ。ある種の人からすればこうした英語学習が楽しいということは奇異に感じられるらしい。あるいはそれは学ぶことは学校での学習にも似て苦行でなければならないという先入観/バイアスによるものかもしれない。だが私は怠惰極まりない人間なので、日々楽しいことや面白いことしかしたくないと思っているのだった。読書にしてもそうで、ただ楽しいから本を読んでいるのである。浅田彰言うところの「スキゾ」的な感受性に基づいて、ずっと軽やかに本の間を横断していく。「積み重ね」て教養を築くために読むのではない。仮にそれが谷崎やナボコフがその生涯を費やして重厚に書き記した作品だったとしても、そんな作家の苦悩にマジメにこちらも付き合う必要はない。「つまみ食い」的に手を伸ばし、とりあえずパクっと食べる。そして「旨い!」と思ったらそのまま読む。不味かったら読まない。そんな風に極めて無責任・無節操に読み進める。こんな不真面目な読み方をしているがために、この年齢になっても読めていない文学作品は山ほどある。落ち着きのない「多動性」の読書と言えるのかもしれない。

おや、話が脱線してしまった。英語学習の話だった……確かに英語を学ぶことはメリットがある。他の文化を知ることによって自分自身の住む文化から来る価値観は相対化され、多角的に捉えることができるようになる。他者とのコミュニケーションを楽しむことができるようになるのも大きい。そして私もそうしたメリットを享受している。だが、それにしたってあまり大上段に構えて「異文化理解」「国際交流」といった大文字の観点を振り回したいとも思わない。そんなことよりは(これも極めて不真面目に響くだろうけれど)「英語ができたらナボコフ『ロリータ』を原語で読める!」「海外の女性をナンバすることができる!」「友だちだって増やせる(増やしてどうしたいかはまた別の話だけど)」と考える方が私にとってはしっくりくる……こう書いていて、自分は改めて「刹那的」「その場しのぎ」「レディメイド」に生きているなと思った。ライフワーク的な「積み重ね」を拒絶し、ただ「スキゾ・キッズ」として「逃げろや逃げろ」、好き勝手にやりたい放題に生きているのだった。

今日は金井美恵子『ピクニック、その他の短篇』を読み終え、『岸辺のない海』を読み始める。一方で『谷崎潤一郎の恋文』を少しかじり、そうこうしていると『瘋癲老人日記』『細雪』を読みたくなってきた。だが、こうした大谷崎を読むからと言ってそれがまったく「エラい」ことではないのは上に書いた通り。ただの「暇つぶし」でありそれが「楽しい」からやるのだ。その意味ではグルメやゲーム、散歩などと同じことだ。私の場合は脳内の回路がバグっているから英語学習や読書が楽しいと感じられてしまうのであって、だからこれをこそ「人それぞれ」「みんなちがってみんないい」な「個性」と呼ぶのだろうと思う。ああ、それにしても谷崎は偉大だ。『細雪』はきちんと読んだことがないのだけれど、この歳になってようやく読めそうな気がしてきた。この予感は正しいだろうか。まだまだ読んだことがない本はある。だがそんな古典を「コンプリート」「読み尽くす」ことにも興味はない。あくまで小林秀雄ランボーと運命の出会いを果たしたように、書物との不意で決定的な「逢瀬」「ランデヴー」を楽しみたいと思うのだった。

・畏友である佐元さんがウェブサイトを開かれたのでこちらでご紹介したい。面白い記事が並び始めている。
samotolog.com