今日は休み。朝、シーヴェリー・コーポレーションの音楽をランダムに聴きながら読みかけのままだった大岡昇平『成城だよりII』を読み終える。これは大岡昇平が晩年に綴った日記なのだけれど、老いてもなお漫画や音楽、文学や映画に関する好奇心を失っていなかった大岡の鋭い批評眼が冴える作品で非常に面白く読める。彼に関しては金井美恵子の随筆からダンディで節度ある大人という印象を持っていた(むろんそれでいて怒る時はきっちり怒る厳しさと優しさをも持っていた、と)。それは日記にも現れている。実を言うと大岡の小説はそんなにたくさん読んだ記憶はない。せいぜい、あのJ・G・バラードをも唸らせた『野火』に打ちのめされた程度だ。なので大岡の小説を探るのもいいかな……と、いつもこんなことを書いて結局のところ「二兎を追う者は一兎をも得ず」で終わってしまう。これが発達障害である。
今日は発達障害を考えるミーティングの日だった。ZOOMで開催されたのだけれど、新しい方も入られて有意義なひと時となった。私は前によそのミーティングで行ったアフォリズムについて紹介する。発表の目的としてはもちろんアフォリズムそのものが面白いからシェアしたいというのもあったのだけれど、宍粟市にもこうした興味深いミーティングを行っているグループがあることを知らせたいという気持ちもあった。ニーチェの危険で反時代的なアフォリズムや、グロリア・スタイネムがフェミニズムをベースに語った「男のいない女は、さながら自転車を持ってない魚みたいなもの」という痛快なアフォリズムに他の方も興味を示されたので、発達障害とは関係ない発表だったのだけれど語ってよかったと思った。他の方の言葉からも(いつもながら)多くを学ばせてもらった。来月はオフで開催できれば嬉しいな、と思う。
会が終わったあと図書館に行き、池澤夏樹『マシアス・ギリの失脚』という分厚い本を借りる。この本は去年の秋にも読んだのだけれど、また読みたくなってしまった。こうして「馴染みの本」に回帰してしまう。若い頃は気張って「(未だ読んだことのない)中上健次全集読破」に挑んだりしたことを思い出す。でも歳を取るにつれ、読書は結局「楽しんだもの勝ち」ではないかと思うようになった。「必読書」を苦痛に耐えて読むのは自分には無理だ、と……楽しんで読まないと本に失礼ではないかとさえ思う。ただ、そうして「楽しむ」ことを重視して本を選ぶようになったせいか、それとも単に加齢のせいか私の読書は古典に目が向くようにもなった。村上春樹『ノルウェイの森』に永沢という、古典を選んで読み新刊に目もくれない登場人物が現れる。彼の気持ちがだんだんわかってきた。時間が経っても古びないマイルストーンのような本こそ多くを訴えかけてくるように思い始める。
腰を据えて、コツコツひとつのことをこなすということが私にはできない。常にいろんなことに目移りして、結局ものにできず終わってしまう。読書だって私はさまざまな本に惹かれて「パラレルに」読むのが流儀である。今夜もそんな感じで、ボーズ・オブ・カナダを聴きながら村上春樹の短編と『池澤夏樹の世界文学リミックス』を併読した。ここ最近スランプを感じていて読書に関しても「ハマれる」本と出会えていないからそんなセカセカした読み方をしてしまうのだろう。池澤夏樹が編んでいる『世界文学全集』を虚心に読むのも有意義かなと思い、とりあえずジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』が入った巻に手を伸ばす。大学で英文学を学んだにもかかわらず自分はケルアックを読んだことがなかったことを思い出す。この歳になって、夏休みの宿題をあわてて仕上げるようにケルアックを読む……というのも人生かなと思う。かっこいい人生ではないにせよ実にオツな人生だ。