跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/27 BGM: スピッツ - 青い車

今日は休みだった。朝、西光寺に行きそこで他の友だちとミーティングを行う。集った方々からいろいろな意見が出される。ひきこもる家族について、私自身が抱えている発達障害について、などなど。このミーティングでは普段はなかなか表に出せない私自身の生きづらさについて、あるいは抽象的/哲学的な「人生とは何だろう」「どうすれば『よく生きる』ことができるだろうか」といった問いについて考えることができるのでそれを実にありがたく思う。他の方の言葉からも多くを学ぶことができて、癒されることも確かだ。今日はある方の「私たちは『私たちから』自由になることもできる」という言葉が印象に残った。ともすれば私は「私自身に忠実に」生きようとしてしまう。それが自分を不自由にしていないだろうか、と思った。そうした気づきの契機をもらったこともまた嬉しいことだ。

参加された方から「あなたはひきこもろうと思ったことはなかったのですか」と聞かれた。私は大学を卒業してから半年間何もしていない、俗に言うニートとして親と同居して暮らしていた時期がある。だが、その両親はもう高齢者であったことからひきこもれる状況になかったので「何とかしなければ」と思い今の仕事を始めた(医師が社会復帰の一助として働くことを薦めたから、『エヴァ』の碇シンジよろしく「もう逃げちゃダメだ」と思ったというのもあった)。そして今に至る。だが、これは決して私がエラいとかそんな話ではない。私と同じシチュエーションに置かれれば誰だって同じように動き始めて働くと思う。あるいは極論や暴論になるが、こんな社会において働くということが「健全なる精神」の持ち主であることを保証するわけではないと思う。ひきこもろうとする動きこそが「健全なる精神」を持つ真っ当な人間であることを保証する、とも言えるのではないか? だからと言って私はひきこもる気はないのだけれど……。

Discordのプロフ欄で私は「A Japanese autistic guy」を名乗っている。つまり私は発達障害者であることを公言している。Twitterでもかつては発達障害者を名乗り、あまつさえその立場から発達障害について(恥を忍べば「ご意見番」「論客」気取りで)語ったこともある。今はそうした形での自認を危険だと思うようになった。発達障害者であるという事実を私は隠さない。リアルではジョブコーチやグループホームなどの利用を通して発達障害を明かし、ネットでもこうして発達障害者から見た世界をシェアしたく思って暮らしている。だが、私とはもっと多様/多彩なアイデンティティを束ねた存在であるという事実をも認めておきたい。読書好き(春樹ファン)であること、ジャズを楽しむこと……そうした自分自身が持つ豊満さ/馥郁とした人間性(うぬぼれにも聞こえるかな?)を否定するのは惜しいと思うのだった。

夜になり、ここ最近ずっと読書タイムのお供だった池澤夏樹編集『日本文学全集』から日野啓三開高健の作品が収録された巻を読み終える。両雄が残したベトナム戦争の記録について、そうした非日常の血なまぐさい事態を見据えた作家だからこそ語ることができた「人間とは何か」「この世界とは何か」について考えさせられた。その後頭木弘樹さんが開かれたTwitterのスペースに私も参入し、私自身の「推し本」について語る。私自身、若い頃は村上春樹村上龍がその人並外れた想像力で描いた非日常に憧れたものだが、今は「普通」の日常をこそ祝福したいと思うようになった。40歳で断酒に踏み切り、そして今日のミーティングを共に開いた方々と交際するようになってそんな風に読書傾向も変わってきたのを感じる。今日みたいな晴れた日、私はスピッツサニーデイ・サービスの音楽を楽しみ、あるいは友だちとの語らいを楽しむ(特にスピッツは「渚」という曲に強く惹かれる)。そうしていると発達障害という軛から自分が放たれ、自分という足枷からさえ解き放たれて自由になれるのを感じてしまう。