仕事とは何だろう……Facebookでのハッキングをめぐるドタバタから一夜明けて、今日は早番だったので朝から仕事をしなくてはならなかったので職場に赴き、ともかくも仕事をこなした。最初はFacebookのことで頭がいっぱいだったのだけれど、とはいえFacebookでメシを食っているわけでもないので仕事は堅実かつ忠実にこなさなくてはならない。裏返せばそうして仕事を私なりに真面目にこなすことはFacebookのことを忘れさせてくれるということでもあるので、最初は「こんな精神状態で働けるわけがない」とさえ思ったのだけれど仕事をしたのはよかったのかもしれなかった。20年以上こなしていた仕事(今日は外国人の方とも接する機会があり、私の初歩的な英語も少し役立った)。その仕事が持つ力や神秘について考えさせられた1日でもあったのかなと思う。ああ、かつては「おれはこんな仕事をするために早稲田を出たわけじゃない」と腐っていた時期もあったっけ。実にアホなことを考えて生きていたものだ。
そして、つながりについても再考させられたとも言えるのだった。これまで自分は闇雲にソーシャルメディア(日本で言うところのSNS)でつながろうとしすぎていたところがあったのかもしれない、と……そうした「つながりすぎ」がこうしたハッキング被害を生み出したとも言えるのではないかとも思ったのだ。思えば過去に孤独だった頃、ネットで有名になろうとか目立とうとか考えて(まさに肥大した承認欲求を持て余して)Twitterで3000人もの人間とつながったりしたこともあったっけ。アホなことをしたものだ。ほんとうに信頼できる人と確実なコネクションでつながっていれば、それ以上のものなどいらない。それはFacebookでなくても、LINEでもWhatsAppでもいいわけだ。このドタバタを通してそんな大事なレッスンを教わったようにも思ったので、この「痛い」出来事はムダではなかったとも思った。いや、とはいえまた私は新たな人とのつながりを求めてあれこれ試行錯誤するのかもしれないけれど……。
昼休み、そんな仕事の反動でぼんやりしていたらある方が話しかけてきてくださった。前に英会話教室で知り合った方だ。その方とのつながりもまた思えば、そんなリアルでの出会いあってのことだ……ああ、リアルのつながりとはかくも深甚なものだ。その方と、私が通っていた高校の話や(たつの市にある高校で、そこに通う日々を経て哲学者・三木清の名を知り今になって彼の『人生論ノート』を読んでいるということ)、この町にもALTの先生方が来られていてそうした英会話教室が可能になっているということ。楽しいひと時だった。ああ、この宍粟市はろくな思い出のない町ではあった。逃げ出したいとも思った。だから(ある意味「ひとっ飛びに」)東京まで行き早稲田にも通ったのだった。だが、今はこんなひなびた田舎町を愛することができる。この町でさまざまな人との出会いを楽しむことができている。それを実に幸せなことのようにも思ったのだった。リアルあってこその幸せ、なのだと思った。
夜、三島由紀夫『仮面の告白』を読み終える。実にコミカルなコメディのように思われた。愛欲・情欲に振り回される男の姿を見出したような気がしたのだった……だが私自身もまたそうした欲求に振り回される悲しき性を背負った存在であるとも言えるわけだ。いつも書いているが、「恋のことがわからない」と悩んでいた時に怪しげな理屈を振り回して「恋は日本においては、西洋から輸入された概念をそのままコピーしているだけだ。『恋』『愛』は海外からの輸入品の概念だ」と主張したりしたっけ。だが、その後私はまさに恋をして……そして最近も(もう時効だと思うので書くけれど)イギリスの女性とDiscordでつながり、彼女に溺れる一幕があったのだった。ずいぶんこの日記でも性について書いた。恥ずかしいことだ。そんなジグザグな日々を経て、私は少したくましくなれたのだろうか。私の中にある女性への思慕や欲求と向き合った日々があって、少しでも前に進めたのなら「これでいいのだ~」とも言えるのではないかと手前味噌なことを考えた。そして人生はつづく。