跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/29 BGM: Phil Collins - Both Sides Of The Story

今日は遅番だった。朝、clubhouseで英語で少し話す。その後イオンに行き、フードコートで考えごとをする。今日は「自己責任」という概念について考えてしまった。知られるように、この言葉はただの「責任」とは少し意味が違っている。自分で自分の人生について、そうなってしまったのはすべて「自分のせい」と考えて「自己責任」を負って生きるべきだというのが骨子となるだろう。つまり、人のせいにしてはいけないと……そう考えると複雑な気持ちになる。確かにある程度までそんな「自己責任」の原則に基づいて生きるのは大事なことだと思う。私は今の会社に勤め続けているが、これに関しても「私の選択」である。仕事が嫌なら辞めてしまえばいいだけのことで、そうしないのであれば私は「自己責任」で仕事をしているということになる。ならば文句を言わず働け……そんな厳しい空気が日本を覆っているのを感じたりもする。私自身、「そんな仕事辞めてしまえ」「そんな親なんか捨てろ」と言われて、でもそうできずに生きてきてしまった。それは「自己責任」だろうか。

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私の立場から言えば、私が仕事を辞めなかったのは辞めてもあてもなく、ニートになるわけにもいかなかったからだ。そして親を捨てなかったのは親も老齢で面倒を見る人がいなくなるのを恐れてのことだ。端的に金がなかったからというのもある。そうしたやんごとなき事情から、もっと「別のありようの」人生をいくらでも選べたのかもしれないにせよ私はそうせず(あるいはそうできず)この人生を生きてきた。それが人生なのかもしれない。人生は「自己責任」では片付かない。人はその時その時、成約・制限の中で最善と思われることをなすしかない。そしてその人生は常に不確定な要素に左右される。偶然も働くだろう。私自身、今英語に関心を持って勉強しているのも決して「自己責任」でやっていることというか、別の言い方をすれば「主体的」な選択とは言えない。深く考えず(翻訳に興味があったとはいえ)英文学を大学で学んだことや、友だちとWhatsAppやMeWeやDiscordでつながらせてもらって英語で表現するようになったことが今を形作っている。言い方を変えれば、「成り行き」でこうなったとも言える。

そう考えてみると、常に「その人から見える景色」と「私から(あるいは外部から)見える景色」は異なりうるという当たり前の事実に気を配らないといけないのだなともわかってくる。独断的に自分の立場から何でもかんでも切って捨てるのではなく、相手の立場を踏まえて考えること。そこから「分断」「断絶」を乗り越える努力をすることの大事さも見えてくる。そして、この「分断」「断絶」は大事なキーワードでもあるなとも思ったのだった。昨日書いたムスリムの人々に対する理解を試みること、この町に住む外国人の方々の生活に思いを馳せること、他人を闇雲になじったり責めたりせず寛容さを以て受け容れること、などなど。それにしても、人生とはかくも不思議なものだ。私だって人から見ればおかしな発達障害者であり理解不能な存在なのだろう。私は私のポリシーに基づいて生きているのだけれど、人は多分私の英語学習も「わけわからん」「意味不明」と見なすのかもしれない。そうして生まれる「分断」「断絶」をどう処理したらいいのか。

フィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサの書物『偽情報と独裁者』を読み終える。フィリピンで精力的にジャーナリズムを切り拓いてきた著者の「不屈の精神」を感じさせる面白い本だと思った。さながらジョージ・オーウェル1984年』のように、「勝てば官軍」的に権力者の意向で過去が書き換わりフェイクニュースが跋扈する状況をどう生きればいいか……Facebookに関しても相当に批判的なことが書かれており、唸らされてしまった。そして、こうして(またしても「手前味噌」なことを書くが)読書を通じていろいろなことを学び続けるのも、私なりに「フェイク」に惑わされず自分の眼を通して本質を見抜くためなのかなとも思ったのだった。「フェイク」が生み出しうる混乱と誤解、そしてそこから来る「分断」「断絶」をどう乗り越えるか……と考えてみるとすべてのことは私の中で「ゆるく」つながっているとも思えてくる。もちろん、他人を完全にわかることはできない。だがその相互理解の精神を完全に捨ててしまうこともまた危ういことだと私は信じている。