朝、clubhouseでジュディスさんが開いたルームに入り話をさせてもらう。ジュディスさんはいつも自由闊達でよく笑う方で、彼女に促されて日記を朗読させてもらい話をさせてもらっていると、自信をもらっているように感じる。私の母国語は言うまでもなく日本語なので、英語で考えたり喋ったりすることは母国語の外へ出るということだ(多和田葉子の洒脱な造語を借りれば「エクソフォニー」だ)。当然ハンディキャップがあるはずなのだけれど、ジュディスさんと話していると自然と英語で考えてしまう。これがジュディスさんの人徳なのだろうと思う。
図書館に行き、鳥飼玖美子『本物の英語力』という本を借りる。そして読み始める。なぜ英語を勉強しなくてはいけないのだろう。これは幼稚なようで、実に重要な問いだと思う。日本人として日本で暮らしていると、わざわざ英語なんて勉強しなくても生きて行ける。私たちの時間は貴重だ。そんな貴重な時間を英語学習に費やす、そんな意味があるのだろうか……私も学生時代、そんなことを思っていたっけ。今は私は、生きることは何かを学び続けること、他者と関わり続けることだと悟ったように思う。だから英語を学び続けている。
鳥飼玖美子氏は著書の中で、「自律した学習者」になること、主体性を持った学習者になることの重要性を説いている。「人生すべて『自律性』でしょう」と書いておられる。これは私は半分うなずけるように思う。私は発達障害者で、それゆえに支援されなければ暮らしていけない。だから私にとって親から自立するということは、完全に自己責任原則に則って生きるということを意味しない。誰かの支援の手を借りながら(言い方を変えれば誰かに上手に依存して)生きていくということだ。鳥飼氏の言葉とはそこで相容れなくなってしまう。
だが、私は「自律した学習者」という言葉はもっと素朴に捉えるべきかもしれないとも思う。それは自分に自信を持った学習者、自分の決断で自分の人生を切り開ける人間ということかもしれない、と。そう考えると私は自分にこの歳になって自信を持てるようになったのを感じるので、「自律した学習者」になれたかなとも思う。そして、自分に自信を持てるようになるのは一見すると抽象的で難しいけれど、要は小さなことの積み重ねなのだろうと思う。挨拶で「How are you doing?」と訊かれて「I'm doing well」と答える。この受け答えの中にすでに自信を持つきっかけが内包されているように思うのだ。