跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/04 BGM: Flipper's Guitar - Big Bad Bingo

日々、職場に行きそこで求められた仕事をこなす。そうして日々は過ぎる。今日昼休み、何も読む気になれずぼんやりしていた時にふと「なんだか毎日同じことの繰り返しだな……」と思ってしまった。もちろん厳密に言えば細部は違うのだけれど、概ねやっていることと言えば同じようなもので決まりきった時間に職場に行き、顔なじみの同僚の方と決まりきった作業をこなしているというものだ。だがしかしそんな反復の日々を過ごす中で時間は確実に過ぎていき、季節も確実に変化しているのだ。そしてチャック・パラニュークファイト・クラブ』的に言えば、私の人生の持ち時間もどんどんゼロに近づいているのだから恐ろしくなる。こんな人生でいいのだろうか、と思う。いや、不満があるというわけではない。どうしてもこの状況に耐えられなくなったら、過去の自分なら酒に溺れて潰れていたと思うのだけれど今なら友だちと相談して状況を変えるなりこの仕事を辞めるなりしてなんとか状況を変えることを試みる。そうして状況を打破して、新しい人生を生きる。だが今はそうはしない。

そう思ってみると、この日記を書き始めたこともそうした状況の閉塞感を打破する試みと言ってもいいのかもしれない。前々から書いているが、なんらデカい野心も何もなくただ友だちと私の生活ぶりを分かち合いたいと思ったから書き始めたこの日記……だが、そうして日記を書くという作業をこなし自分の中を覗き込むと見えてくるものがある。今日、ふと10年ほど前に友だちから「もうそんな仕事辞めてしまったら?」と言われたことを思い出した。ああ、あの友だちはどうしているだろうか。私は結局そう言われても仕事は辞めずに続けてしまったのだけれど、その過程で死の手前まで行き着いてしまった。つらい人生だった。ひたすら車谷長吉の本にかじりついたりして……その後断酒を成功させて、今の生活を手に入れたのだった。日々、少しずつ状況は変化しそのような大きな変化へと私を導いているのを感じる。焦ることはないと自分に言い聞かせる。焦らないで、「凡事徹底」の心意気で日々を生きる。

今日は谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』を買った。そして読み始めるも頭に入らない。疲れているのだ……完全にこうしたエッチな作品に関心が向いている。今日も朝にジューン・ラブジョイさんのブルマ画像を見て興奮したりして、鼻血さえ出してしまい自分のテイストが子どもの頃から歪んでいることを思い知る。谷崎潤一郎はその性欲・情動を傑作として昇華したのだけれど、私はそんなデカい作品を書くことなんてできないからこの日記を書くのが精一杯だ。高校生の頃、村上春樹ノルウェイの森』で描かれているレズビアンの描写に興奮したりしたっけ。何度強調しても足りないが、私はドがつく変態だと自分のことを自覚している。だが、それをあからさまにして「人間は皆変態なんだ」「性こそ人間が直視するべき根源的問題だ」と居直るのも違うと思っている。バランスを取れないものか、と考えている。欲望に振り回されるのが悲しい人間の性なのかもしれない。だが、その弱さをことさらに誇示して人を困らせたくない。

大学では英文学を学んだのだけれど、D・H・ロレンスを読んだことがないのを思い出した。『チャタレイ夫人の恋人』『息子と恋人』を読んでみようか……福田和也言うところの「ろくでなし」の営為として、つまりなんら高尚な営みとしてではなく「堕ちた」人たちの苦しみやあがきの産物としてこれまで自分は文学作品と親しんできた。私自身、『新世紀エヴァンゲリオン』的に言えば「ぬか喜びと自己嫌悪」の繰り返しで生きてきたようなものだ。それが人生なのかもしれない。ああ、過去に世捨て人を気取って物質的生活・世俗的生活から遠ざかって生きたいと思ったっけ。とかくこの世はくだらない、と。そんなことを考えることで性の欲動や妄想に振り回される自分から逃げたかったのだった。今は、どこに行っても自分はこの情欲や情動から逃げられないことを自覚している。たとえソロー『森の生活』を気取って森の中に行こうがどこへ行こうが、だ。自分が自分である限り自分は苦しむ。ならばその因果な自分の性を引き受けて、自分の人生に責任を負うしかないのかな、とも思う。「闇を見つめなさい ずっと眠らずに それこそが希望だと 気づく日が来るまで」(b-flower)。