跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/05 BGM: Pat Metheny - Phase Dance

今日は休みだった。発達障害の悲しい性で私はひどく忘れっぽい。うっかりすると約束をすっぽかしてしまったりダブルブッキングしてしまったりすることもしょっちゅうある。今日は約束していたジョブコーチへのメールを書く日だったが、Google Keepのリマインダ機能を使ってそのメールを忘れずに書くことができた。自分が職場で困っていることについて可能な限り率直に記す。私は嘘をつくのが下手なので(とはいえ、まったく嘘をつかずに生きているわけでもない。為念)、正直にノーガードで書く方があとあと楽だろうとも思い告白してしまった。さて、どう転ぶのだろう。過去に(昨日も書いたが)泣き寝入りしていた日々を思い出し、「思えば遠くへ来たもんだ」と思った。そのジョブコーチの方との出会いも、自分が発達障害を受け容れた上でしぶとく生きることを考えるようになったのもすべては「発達障害を考えるミーティング」あってのことだ。そして人生はつづく

メールを書き終えた後、村上春樹『村上ラヂオ』を読む。ふと、自分自身のことを考える。私は村上春樹に影響されてジャズを聴くようになったのだけれど、そうして「環境に適応して」生きることを試みるのが自分の性なのかなと思ったのだ。つまり環境を変えることを試みたりせず、その環境に自分を合わせようとする。それはもちろんいい点と悪い点があり得るが、結果として私の人生は「いい点に働くまで頑張るのが自分」ということに落ち着くのかもしれない。この仕事だって何度も「もう辞めたらどう?」と言われた。私も辞められるものなら辞めたいとも思い、結局そうはできなかったので思い詰めたこともあった。今ももっと自分の英語力を活かせた仕事なら活躍できるかもしれないなと思うこともある。だが、体の方が仕事に馴染んでしまったようで今でも続けられている。映画『オデッセイ』と同じ状況に置かれたら、多分私も生き残ることを考えてディスコを聴きながら奮闘するのかなと思った。

とまあ、音楽の話をしてしまったが私は音楽にずっと助けられてきた人生を歩んできた。今も朝方、いったい自分がどうしたいのかわからなくて困る時にスティービー・ワンダーを聴いたりして心を落ち着けたり、あるいはピチカート・ファイヴを聴いて「明日は明日の風が吹くんだな」と励まされたりしている。仕事に入る時は『パルプ・フィクション』のサウンドトラックに助けられたり、かといえばジェームズ・ブラウンに自分をなぞらえたり……そんな感じで音楽はずっと私と共にある。小学生の時にふと聴いたPSY・S「Lemonの勇気」という曲が私を文字通り「貫いて」以来、こうして音楽と共に私は生きてきた。この分だと多分「老後」を迎えても自分は気取ってエリック・クラプトンボブ・ディランのアンプラグド盤を聴いたりするのだろう。年を取れば子どもに帰るというから……私も結局一度も恋を経験することなく、夢もロマンもなくこの歳になってしまった。やれやれ、とんだ人生だ。

デ・ラ・ソウルのアルバムがサブスクで聴けるようになっていたので、『Stakes Is High』を聴きつつ木曜日に行うミーティングのための資料を作る。アフォリズムについてだ。堅苦しい「講義」になってしまうと参加者もつらいだろうと考えて自分なりにユーモアを入れる。村上春樹ウディ・アレンアフォリズムを引用する傍ら、ガッツ石松長嶋茂雄も引用できないかと試みる。これは検索して知ったのだけれど、例えばヨギ・ベラという野球選手は「ただ見ていれば、多くを観察できるよ」と禅にも似た迷言を残している。これに長嶋茂雄の「松井君にはもっとオーロラを出してほしい」(もちろんこれは「オーラ」の間違い)という言葉を脇に置けないか、と。あるいはタモリの「あやふやなときは堂々と言うんだよ」という言葉も捨てがたいな、と思いつつ午後を過ごす。