跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/28 BGM: Prince - Purple Rain

今日は休みだった。朝、読みかけていた岩波文庫坂口安吾のアンソロジー堕落論・日本文化私観 他二十二篇』を読み終える。ああ、過去に死への願望に取り憑かれて苦しんでいた時に、法月綸太郎の文章を介して坂口安吾と出会ったことを思い出した。その時も目が覚める思いをしたのだけれど、今読んでも充分に「効く」し身体中をグルグル「回る」文章だと思った。この世には救いはない、と安吾は言っている。善悪を超えたところで世界は成り立ち、その無秩序の中で私たちは欲望を抱えてあがくしかない……と安吾は言っていると思った。だが、深読みがすぎるかもしれないがそうして欲望を抱くことをあっさり肯定して安住することすら安吾は否定しているようにも思う。むしろもっとその自己の矛盾や混沌を見つめてあがけ、苦しめ……そう言っていると受け取る。それがつまりは「生きよ、堕ちよ」ということなのだろう、と。確かにこれは救いがない。私なら私は一生この(主に女性をめぐる)苦悩から救われっこないと言っているのと同じだから。だが、それはまた逆説的に救いともなると思った。

そうした安吾的な誠実さを引き受けて生きることが肝要なのかもしれない。私なら私がたぶん一生女性の美しさに惹かれ続けて、手が届かない美や(すでにいい歳こいた人間として「恥を込めて」書くが)母性に憧れて、その憧れに身を焦がす。「後悔してみても、所詮立直ることの出来ない自分だから後悔すべからず」と安吾は自分の生き方を記している(「青春論」)。私もこの歳まで女性絡みのことでさんざん恥をかいて、バカなことをして生きてきた。ああ、パスカルが「もしクレオパトラの鼻が低かったら世界は変わっていただろう」と記しているそうだが、この世界はたかだか1人の女性のそうした美醜でその相貌を変化させてしまうほど脆いとも受け取れる。私は実にノミの心臓の持ち主なので、女性の豊かな乳房や臀部の丸みにたやすく本能がなびいてしまい、その本能のせっかちな動きを理性があわててフォローするという生活を過ごしている。私は決して理知的な人間でもなければ理性的な、落ち着いた人間でもありえない。「ちっちゃいおっさん」である。

昼、ヘロヘロになりながらなんだかんだで頓挫していたウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』を読み終える。これは一筋縄ではいかない、実に「たくらみ」(大江健三郎)に満ちた作品だと思った。ハンバート・ハンバートという男の独白がこの小説を成しているわけだが、ならばここで語られるロリータの一挙手一投足もまたそのハンバート・ハンバートの目を通した、彼の脳髄が生み出した妄念・妄執の産物であることを踏まえなければならない。ならばそうした妄念から開放された真に自由なロリータ、あらゆる「性的な視線」に染まっていないロリータなるものがどこかに存在しうると考えるべきなのだろうか。言えるのは、この作品を虚心に読む限り(つまりその読解を通して彼の手玉に取られることを選ぶ限り)私なら私は彼の語り口の魔力から逃げられないということだ。「語ること」、この索漠とした現実を誰かの目線から切り取るということの意味について考えさせられる。

今はほんとうにこんなエッチなことしか考えられないようだ……図書館に行く。そこで谷崎潤一郎痴人の愛』を借りる。女性(ファム・ファタール)に狂わされ、破滅していった男の話を立て続けに読んでいるわけだ。夜、ナボコフ『ベンドシニスター』を少し読むも今日はさすがに活字を読みすぎたので頭に入らない。安吾は「一生涯めくら滅法に走りつづけて、行きつくゴールというものがなく、どこかしらでバッタリ倒れてそれがようやく終りである」(「青春論」)と書いた。それが人生なのだろう。私自身、この人生における目的なんてありゃしない。ただ走る。どこへ? 知ったこっちゃない。ブルース・スプリングスティーンに倣って「明日なき暴走」を気取って……私は弱いので安吾のように自ら苦行を生きることを選ぶ肚は持ち合わせていない。救われたい、と思う。だが、私もわかっている。この生き方、こんな自ら「考えすぎる」人生を選ぶ限り自分が決定的に「救われる」日は来ない。我ながら「難儀な性格だなあ」と自分のアホぶりに呆れてしまう。