恥ずかしい話なのだけれど……今日は仕事の日だった。だが、ここで無理をしてはいけないと思ったことから私は「休む」ことを選んでしまった……そのことをLINEで人に伝える。その相手からも「いい決断だと思います」と言われたので、私は無理をしないことに決めた。腹をくくった。そして、スマートフォンを自分から離してベッドに横になる。何も考えない。眠れっこない。朝、身体が起きるべく興奮するのを確かに感じたのだから。陽の光を浴びれば私の身体は覚醒するようにできている(この生命力に私は驚きを禁じえない)。だけどそんなことは知ったこっちゃない。こんな時でも自分の頭は回る。Discordでダベって過ごそうかとかあれこれ……でも、相手からLINEで「目を閉じて横になりなさい」と言われたことを思い出し、それに忠実になることにした。その方は鬱がどんなものか知っておられるから、言われた通りにしていれば間違いがないと(直感的に)判断したのだった。
ああ、過去に仕事を休んでしまった時、上司から「もっと強くなれ」と言われたことを思い出す……そしてそれに応えようとして無理をした。あの当時はアルコールを呑んで過ごしていたので、やけ酒を呷って命を削る思いで仕事をした……結局その無理が祟ってしまって破綻してしまったのだった。なぜこんな思いをしてまでこんな人生を生きていかなければならないのか、さんざん問いながら生きたものだ……それが今生きる上での糧になっている、と書けばカッコつけすぎだろうか。あの上司は今はどこで何をしておられるだろう。あの頃、発達障害のことをさんざん訴えた。自分なりに状況を切り拓こうとして頑張った。それを思うと今のこの状況を改めて幸福に思う。生きていくのだ……今は休むべき時だと判断するのは間違いではないと私は信じるが、もしあの上司が今でも私を指導しておられたらなんと言われるだろう。
昼、なんとかサンドイッチを食べる。食べたり(下品な話で申し訳ないが)うんこをしたりしないと回復しない、というのが私がこの人生で得た教訓だ。その後もたっぷり頭を休める。ふと、Twitterで昨日がウラジーミル・ナボコフの誕生日だったことを知る。『ロリータ』を読み始める。いかにナボコフの流麗な文章とはいえ(そしてそれを端正な日本語に訳した若島正の偉業とはいえ)、まだ今の脳は活字を受け付けずあくびが次から次へと出てきて止まらない。信頼している方のためにもここで無理をしてはいけない。スウェードを聴きながら、自分なりの『ロリータ』を書けないかと思ってみる。それはきっと私の中のこれまた下品な次元の欲望をあからさまにしたものになるだろう。書くことはそうした「排泄」なのかもしれない。むろん、だから下品なままのものを恥ずかしげもなくオープンにしてもいいというわけではないが。
夜になる。相変わらず『ロリータ』を少しずつ読む。いや、こんな時に『ロリータ』なんて読んでどうするのだ、と言われるかもしれない。まっとうな勤め人ならもっと生活に役立つこと、仕事をする上で大事なことをしろ、と……でも「寝溜め」は充分にしたのだから、今は『ロリータ』の世界に浸ることがリフレッシュなのだと答えるしかないのだった。おかしいかもしれないが私はそういう人間である。その傍らDiscordでとある方の日本語に関する質問に答えたり、あるいはチャットに興じたりスマートフォンをチェックしたりと落ち着かなく時間を過ごす。ここまでくると根比べだ。村上龍に倣って「死なないこと」「楽しむこと」「世界を知ること」に務めたいと思った……そのためには『ロリータ』だって読むし心の中にわだかまっているうんこを「排泄」だってするのだった。