もちろん、呑む呑まないは個人の判断(自己責任?)の範疇の話だと思う。ぼくは嘘はつきたくない。アルコールを呑めばどんなにハッピーな気持ちになれて、この浮世の憂さを忘れさせてくれて重力圏から解放されたかのようなふわふわした気持ちを提供してくれるか(一時的なものにすぎないとしても)、それこそ骨身に沁みて知っている。社会は法令でアルコールを禁じるべき、なんてことは口が裂けても言わない。だが、ぼく個人の選択として呑むとまた正気を失って酒に溺れて地獄を見るんだろうなとわかるので呑まないことに決めているのだった。
それはそうと、Discordで日本やアメリカが共通して持っている教育システムの問題について軽く議論を楽しむ機会があった。昼食時にそのことを思い返し、このことを思った。なんだか教育問題について語るなんてずいぶんぼくもエラくなった気がするが、ほんとうにそんなにぼくは成熟した大人であり自分の中に確固とした自信・自尊心があると言えるんだろうか。ぼくはこれまでの人生をまったくでたらめに・ちゃらんぽらんに生きてきたのでまったくもって賢いとは言えない。ただ、これまで撒いてきた種が生やしたものに対しては自分なりに責任を持つつもりで生きてきたのだけれど、どうだろうか。
ふとこんなことを思った。ぼくの心の中というのは、たくさんの要素がそれこそおのおのの「相」「性格」を持って存在している。といってもなんだかむずかしすぎてわけがわからないと思うけれど、つまりぼくの中には子どもの性格が確固として存在する。たとえば、マテリアルな欲望(日本語で単純に言えば「物欲」「色欲」)に四六時中浸っていたいと願う自分自身がいる。ラブリーな女性、面白い本(今日はそんな本を求めて、図書館でジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』とウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』を借りた)、そしてすばらしい音楽。でも心のどこかにはこの自分を制御するマスターというか父親的な性格がいるとも思う。でもこんなことを考えるとなると、ぼくはそれこそこれまで読まず嫌いだったジグムント・フロイトの思想から学ばないといけないかなとも思う。
夜になり、年若い友だちのプレゼンテーションを楽しむべくふたたびZoomを立ち上げ、ミーティングに参加する。内容は出土した磁器を通したこの地域の歴史と文化的遺産について。実にわかりやすい説明で、門外漢そのもののぼくも楽しめた。その後、このミーティングを主宰するグループのホストの方(Facebookでもつながらせてもらっている)が、またぼく自身からもプレゼンテーションをしていただければとオファーして下さった。去年はたしか谷川俊太郎に代表されるぼくの好きな詩文学の話をしたりしたのだった。今年は……ウラジーミル・ナボコフについて、とりわけ日本でも広く知られている『ロリータ』の話というのはどうか。いや、それこそあまりにも「アダルト」にすぎる、人を選ぶ話題だろうか。