跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/08/28

BGM: The Beatles "In My Life"

今日は早番だった。朝、今日こそダメじゃないかなと思った。モチベーションが湧いてこなかったし、夏風邪気味でもあった。でも職場に行って仕事を始めるといつものように動くことができた。これがマジックなのかなと思った。いつも私は仕事に関して自信を持っていない。あるわけがない。誠実に考えれば考えるほど、仕事をこなすことに対する自信を失ってしまう。ただ、私の中には20年以上続けてきた経験がある。そしてその経験から生じた勘というものがある。それらを頼りに動いている。この2つは理屈というか頭の領域の問題ではなく、もっと体に刻み込まれたフィジカルなものなのだと思う。

少しずつ秋めいてきた。読書の秋、とも言う。さてどんな本を読んで過ごそうかと考える。新刊を手に取ることもなくなった。話題の本を読んで世間の動向に追いつきたい、とも思わなくなった。手元にある本を読み返し、あとは信頼できる書き手の本を読み……ずいぶん保守的というか「守り」に入った読書になったものだ。今日はエーリッヒ・フロム『愛するということ』の読書を続けていたのだったが、昼間仕事をしたせいかダラダラと時間を費やしてしまった。まあ、そういうこともある。読んでもすぐにあくびが出る始末なのだった。

いったい何なんだろう。仕事をして、本を読んで、寝て、食べて。これが人生なのか……何だか村上春樹「かえるくん、東京を救う」の片桐のような暮らしだ。私は1995年に成人を迎え、この年に起きたオウム真理教事件に影響を受けた。というか、この事件をきっかけに果敢に論陣を張っていた社会学者の宮台真司を知り、新しい知識人の姿を見た気がして彼の本を読み漁ったのだった。彼が語った「終わりなき日常を生きろ」という言葉は今も私の中に生きている。いや、現実問題としては東日本大震災やコロナがあったりして到底「終わりなき日常」なんて呑気なものではなかったとしても。

その後いろいろな本を読み漁り、私は「終わりなき日常を生き」るということはむしろ成熟した大人の知恵が必要とされる所作なのではないかとも考えるようになった。どんなことが起きても、橋本治のように自分の経験や肉体に刻み込まれた記憶をベースに自分で考える、ということ。そして自分のスタイルを崩さず、自分を安売りしないということ。私は決して強い人間ではない。優れた人間でもありえない。ただの「考える葦」(パスカル)である。ただ、私自身も経験や勘に誘われるがままに人とは違う道(まさに裏街道)を歩いている。私の生き方は何なんだろう。「無頼」なのだろうか。