跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/01

堀江敏幸『回送電車』を読み、古井由吉の『仮往生伝試文』や『槿(あさがお)』に手を伸ばし……こんな本たちを読んでいても一文の得にもならない。もっと金になる本を読めばいいのに、と我ながら呆れてしまう。だが、今日ふと私は思った。本はそれ自体一個の完結した作品である。と同時に、本はある種の「パズルのピース/かけら」なのではないかとも思ったのだ。そのピース/かけらをつなぎ合わせれば、実は私だけに与えられた独自のマンダラというか図像ができあがるのではないか、と。話が難しくなりすぎただろうか。

私だけのマンダラ……例えばスティーブ・ジョブズがカリグラフィーの勉強をした時、後にアップルでコンピュータを開発する時にその知識を活かしうるなんて思ってもいなかったはずだ。とにかくその時々気が向くままにがむしゃらにやったことが、後に「あの時勉強しておいてよかった」と生きてくることがある。同じように、私も後に活かそうなんてことは考えずにその時その時に気が向くままに読んでいるのだけれど、それらの読書が後に生きてくることがある。カミュ『ペスト』を読んだ時のことがコロナ禍で役に立つように。

話は変わって、自分の30代のことを思い出した。私は当時自分のことを発達障害とは考えておらず、愛着障害についても聞いたことがなくアダルト・チルドレン人格障害境界例自己愛性人格障害等など)ではないかと素人採寸で思っていた。その時に京都の自助グループに通い、人格否定されるまで厳しく指導されたことを思い出す。結局嫌気がさしてやめてしまった。私は本をよく読むのだが理屈よりも先に自分にとってしっくりくるかどうか、心地よいかどうかを優先させて考える人間である。故に、この自助グループの「正しい」ご宣託ではなく自分の勘を信じて今を生きている。

話がとっちらかってしまったが、要は私は本を読む時は思いっきり心地よさ/楽しさを優先させて読む人間であるということを言いたいのだった。金のことを考えたら私も堀江は堀江でもホリエモンの本を読むかもしれない(彼の本はそんなに悪いものではないと思っている)。だが、その心地よさ、自分が興に乗ってやったことが思わぬ形で自分の道を照らし、誘導してくれることがある。それは金では買えない読書の醍醐味なのだろうと思う。さて、私の頭の中で日々作り続けられているマンダラとはどんなものなのだろう。