跳舞猫日録

Life goes on brah!

伝えよう、感電するほどの喜びを!

去年の5月から、私は日記を書くことにした。しかもただの日記ではない。最初は日本語で前日のことを綴った日記を書き、それを英語に訳するという作業を行っているのだ。今のところ今日まで途切れたことはない。私は何事も三日坊主で終わることが多い、極めて飽きっぽい人間なのだけれど(発達障害者ということにも由来するのだろう)、これは自分の性に合っているようだ。やっていていったい実りがあるんだかないんだかわからないけれど、やらないと落ち着かなくなってしまったので毎朝の時間を割いてこの作業を行っている。少しは私の英語は上達したのだろうか。

英語で日記を書くことにした理由は単純で、MeWeというソーシャルメディアの友だち(インドネシア人)から「英語がクールですね」と褒めてもらったからだった。思えば日本人の友だち(年上の英語教師)からも「あなたの英語はわかりやすい」と言われたりもしていた。なら、その友だちに宛てて自分の日々のことをもっとお伝えしたい、と思うようになったのだった。彼女も私の日記をたまに読んで下さっているようで、それをありがたいと思っている。この「伝えたい」という気持ちがミソなのではないかと思う。英語学習でグローバル化、という大きなお題目に惑わされたくはない。

言葉を話す/聞くとは、基本的に送り手と受け手の二者間で行う作業である。つまり、自分ひとりではできない作業ということになる(自問自答や独り言といったケースはこの際置いといて)。なら、私がどれだけ独りで英語を鍛えようが、それを実際に話して相手に伝えないことにはそれは「話せた」ことにはならないのではないだろうか。裏返せば英語なんて下手でもいいのである。相手に伝わり、それが心動かすものであったとしたらそれは強力な英語だったということになる。私たちは学ぶことに気を取られがちだが、それを伝えることを恐れてはいけないのだと思う。

私の英語にしたって、ネイティブの知人から時々びっしり添削されることがある。意味不明の間違いだらけで(むろん、その間違いは私の未熟から来るものなのだが)、自分でも「なんてこった」と天を仰ぐしかない。だが、それでも続けていたら「よくなってきた」と褒められたりするのだから継続は力なりということなのだなと思う。英語が話せたら、と思っているならまずは使ってみてはどうだろうか。私はclubhouseやFacebook、DiscordやWhatsAppやLINEで毎日英語を使っている。使ってこそ、生み落とされた言葉の中に宿る言霊が喜ぶというものではないか?

#もしも英語が使えたら

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