片岡義男『日本語の外へ』を再読する。私は本を読む時はいつも音楽を聴きながらなのだけれど、今回の読書は『アメリカン・ユートピア』のサウンドトラックを聴きながらだった。湾岸戦争時のアメリカの動向が分析され、その後英語と日本語の相違が語られる。英語の「I」に相当する言葉を日本語が遂に持ちえないという指摘が面白い。英語で「I」は絶対的な主語であり、この「私」の本質に根ざしている。日本語の「私」は相手に応じて柔軟に変化する存在であり、相手との関係性において決まる主体である。ここに英語と日本語の相違が(すでに)現れている。
ふと「片岡義男のように小説を書けないだろうか」と考えた。いや、私は恋愛を知らない。他人と恋に落ちたことがない(片思いなら3度ほどある)。ならば恋愛以外のことを書けばいいのだが……坂口恭平みたいにいっそのこと「今」なにを思っているか書くのも面白いのかもしれない。「今」……例えば私はOpus IIIというグループの音楽を聴いている。眼前に広がっているのはかけがえのない2022年3月8日の現実だ。片岡義男の作法に従って自分なりに「今」世界で起きていること、自分が体験してきたことを小説として溶かし込むのもいいのかもしれない。
『日本語の外へ』では、日本人の英語について分析が示される。片岡が目撃した英語はだいたいにおいて、日本語をそのまま英語に訳したような(つまり日本語での思考の呪縛から自由になれていないような)不自然なものだったという。もちろん私も「同じ穴のムジナ」であることを断りながら書くが、確かに英語の発想に触れると「日本語での思考」から解き放たれる時がある。それが自分の思考の範囲を「広げる」ことにつながると信じている。他者に対して開かれ、より自分の思索が深遠になる、と。楽天的すぎるだろうか。
夜、clubhouseであるルームに参加する。そこでギフテッドについて話す。ギフテッドとは発達障害の一種でIQがある数値以上を示す天才的な資質/才能を持つ人のことである。私の知人もまたこのギフテッドであり、賢いがゆえの生きづらさを感じておられる。話はそこから広がり、日本の同調圧力の強さ(にもかかわらず日本が昨今の状況で、なぜかロシアを牽制する動きになかなか「同調」しないこと)が語られた。奇しくも『日本語の外へ』の議論とシンクロするものとなる。日本人が他者との関係の中で自分を見つめる特性を持つこと、ゆえに空気(これが「他者との関係」から醸成される呪縛だ)を読みすぎること。この問題はなかなか根深い。