Back To Life

Back To Reality

2021/08/25

昨日読みかけていた『J・G・バラード短編全集』第2巻を読み終える。強迫観念や依存について書かれた短編が印象に残る。私たちは自分が欲するものを満たすために生きる。食欲を満たし、物欲を満たし……というように。だが、その欲望自体が自分の素直なものではなく誰かから作られたものだとしたら? 誰かから欲しくなるように仕向けられたものだとしたら? こんな問いを抱えながら読むとバラードの短編は今なお鋭くこちらに突き刺さってくるように思う。私自身のことを思い出す。私自身なんでこんなものを買ったのかと不思議に思うような本が本棚に並んでいたり、あんなに酒に溺れたのはなんだったのかと思うことがあるから。

その問いを抱えたまま、かつて買っていた國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を軽く読み返す。私たちが消費社会に生きている以上、何事かについて自分が欲しいわけではないのに無理やり欲しいと思わされている可能性が丁寧に論じられている。例えばサブスクで音楽を聞く時、この世にはサブスクで聞けない音楽もあるのに「聞ける音楽の範囲」に絞られた音楽の中から聞きたい音楽を探すように仕向けられていることを思い出す。話が難しくなるのでこれ以上は立ち入らないけれど、なかなか刺激的な考察が書かれている。退屈、というキーワードも面白い。ハイデガーを引いて「なんとなく退屈だ」と感じてしまう心理を分析したところに著者の渾身の力を感じる。

昼からとあるオンラインミーティングに参加する。そこで私自身のことについても話す。私は、かつて自分がこの世に存在することが許せなかった。死にたいと思ったし、死ねばみんな喜ぶのではないかと思った(「葬式ごっこ」に興じるいじめっ子の心理がわかるように思った)。そんな思いを抱えたまま20になり30になり、40になって好きになった女性から言われた言葉が私を変えた。私のことを好きになれたように思った。宮澤賢治は「わたくしという現象」という表現を使って自分自身のことを説明しようとした。私も自分は「現象」かもしれない、と書いてみる。私にはどうにもできない思いつくことあるいはやってしまう行動と、そこから見えてくる「私とはこんな人のようだ」という……これについてはもっとわかりやすく書けるようになりたい。

夜、デヴィッド・リンチロスト・ハイウェイ』を観る。リンチの映画はむろんわかりにくいが、ツボにハマるとあれこれ深読みをしてしまいたくなる(つまり、わかりやすすぎる映画となる)。今回は「分身」というキーワードから観直してしまった。私が居て、私の「分身」が居る。私ではないのに私と見做される存在である。私の中に居るもうひとりの自分。あるいは私の外に居るドッペルゲンガーのような自分。そんな自分が居ると考えると恐ろしく感じられる。そんなごく原初的な怖さを催す映画だからこそ時折観たくなるのだろう。ホラー映画を楽しむ心理のように……と書いて理屈がつかないことに思い至る。なぜ私は、理屈で説明できない欲望に急かされて映画を観たくなるのだろう?