跳舞猫日録

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デヴィッド・リンチ『ロスト・ハイウェイ』

デヴィッド・リンチロスト・ハイウェイ』を観る。映画をわかるとはどういうことなのだろう。私はこれまで500本以上映画を観てきた計算になるが、映画を観て「わかる」ということがなにを意味するのかわからない。大真面目に書いている。私が書き殴っている感想文は単に私の脳内に像を結んだ感想、あるいは脳が生み出した妄想にすぎない。私は映画鑑賞に「正解」はないと思っている。中二病的な意見になるが、同じ映画を観ても感想が十人十色であることが望ましいと思うのである。従って、この『ロスト・ハイウェイ』の感想も「正解」を書いたものではないことをお断りしておく。

デヴィッド・リンチの映画は実は結構同じようなクセで撮られていると思う。宇野維正だったか「リンチを観ていれば(シネフィルでなくても)リンチは語れる」と言っていたのを読んだ記憶があるが、リンチ・ワールドとはそういった「慣れれば美味しい」な魅力の宝庫であると思うのだ。今回『ロスト・ハイウェイ』を観ていて思ったのは「分身」というキーワードからこの映画を読み解けるのではないかということだった。考えてみればリンチは「分身」を使うのが上手いのだ。『ロスト・ハイウェイ』にそこかしこに配置された「分身」も堂に入った存在感を示している。

例えば『ツイン・ピークス』を思い出そう。あの映画はローラ・パーマーという清純派(?)の女子高生が裏の顔を持っていたという二重性がドラマの鍵となっていた。あるいはこのドラマシリーズの表の主人公のクーパー捜査官と裏の主人公のボブとの鍔迫り合いが、作品にダイナミズムを与えていたと言ってもいいのではないかと思う。「分身」は『マルホランド・ドライブ』でも『インランド・エンパイア』でも登場する。ここにいる自明の存在である「私」と、そんな自明性を崩す「もうひとりの私」の小競り合い。『ロスト・ハイウェイ』のテーマもこの単純な図式で整理できる。

フレッドというサックス奏者の前に現れる謎の男の二重の存在(パーティ会場に居ながら、自宅に居るもうひとりの自分と電話をする!)。これがこの映画にこれ見よがしに登場する「分身」だ。フレッドは妻殺しを行い、そしてなぜかピートに変身する。これもまた「分身」。人格が変わるということでならあおり運転を咎めるエディの柔和さと凶暴さのギャップも「分身」のひとつだろう。そして、この映画を彩るレネエとアリスは同一人物が演じているのだ。これもまた「分身」だ。事程左様にこの映画はリンチお得意の「分身」が用いられた刺激的な(悪く言うとあざとい)映画だ。

では、なぜ「分身」が問題になるのだろう? それは私たちの世界認識のあり方に関わってくるからではないか。誰しも、「ここにいる」自分から見た世界しか認知できない。「分身」(ドッペルゲンガーみたいな存在だ)が見たものをこの私も見ているなら「分身」の意味はなくなる。逆に言えば私ではない認識の主体なのになぜか私と呼ばれる「不気味なもの」。それが「分身」である。それを問うことは「分身とはなにか」を問うことでもあるし「私とはなにか」を問うことでもあるだろう。哲学のいろはのいのような問いなのだ。そんな原初の次元の問いを放つことは、私たちを不安にさせる。

デヴィッド・リンチという映画監督の世界認識は、その意味で子どものそれなのだと思う。幼稚、と言い換えてもいいかもしれない。不気味なクリーチャーをそのまま出し、噛み合わない会話をそのまま映す。『イレイザーヘッド』から一貫したこの子どもっぽさ/幼稚さに、フィルム・ノワールの味付けを施したのがこの『ロスト・ハイウェイ』ではないか。だとすればこの映画が絵本のような至極単純に構成されたドラマの印象を与えるとしても不思議ではないのだった。この映画はきっと「大人の絵本」なのだと思う。絵本であるが故のフカヨミもできる、その意味で逆説的に深い、という意味も込めてそう呼びたい。