台風が近づいているという。だからなのか、今日は早番だったのだけれど帰宅後いつものように『THIS IS US 36歳、これから』や『親愛なる白人様』を観ようかと思ったのだけど、観られずにぼんやり植草甚一の『ぼくは散歩と雑学が好き』を読んで過ごした。結局、これが私の生き方なのだなと思う。好きな本があって好きな音楽があって、好きな映画があって気の知れた人とLINEかなにかで繋がっていて、それだけでなんとか生きていける。かすかにではあるがこの世の中と繋がることができる、というように。もしかしたら引きこもっていてもおかしくなかったのかもしれない私も、今かろうじて生きていられるのはそうしたアイテムと友だちのおかげだ。
夜、アンドレイ・タルコフスキー『僕の村は戦場だった』を観る。タルコフスキーの映画は眠くなるという定説があるが、この映画はなんとか眠らず観ることができた。タイトルからわかるように、主人公の少年兵が幼心に観た戦場の光景が映し出されている。幼年期の甘美さ……と書くと陳腐になるが、そんな美しいものを描いていた映画のように思われる。タルコフスキーは記憶にこだわる詩人だ、と思った。これまでの彼の映画だって記憶の甘美さ、そしてそれを背負って大人として生きていくことを語っていたと思う。
しかし過去とはなんだろう。記憶とはなんだろう……私はいじめられた幼少期を経て、早稲田の学生として青年期を過ごした。なかなか得られない体験だったとは思うが、決して幸せな時代だったわけではない。しんどい思いをして、なにひとつ得られなかった。今、私は幸せなのだろうと思う。やりたいことができていて、辛かった過去に苛まれることもなく、「今」を生きていられる。私は早稲田が自分の栄光だったとは思わない。まして、過去に生きて今をないがしろにするのは愚の骨頂だと思う。「今」が一番いい。
とはいえ、かつてを思い出すとそんな「今」を生きることを、どこかで刹那的に瞬間を生きることと思っていたのかもしれない。もっと平たく言えば、その日が楽しければそれでいいと思って……それでお酒を呑んで寝て終わって、そんな生活のまま20代と30代を過ごした。だから私には20代と30代の記憶がない。いい時代だったのかもしれないけれど全然覚えていない。「今」がいい、と思う。私は過去にも日記を書いていたが、全部捨ててしまった。自分の書くものが好きになれなくて……自分のことも全然好きになれなかったからだ。今は自分のことを許すことができる。それが幸せだ。