跳舞猫日録

Life goes on brah!

2021/11/06

ここ最近、映画を観るのをサボって本を読むのに夢中になっていた。なので久しぶりに映画を観てみたくなり、夜にネットフリックスで是枝裕和海街diary』を観た。是枝裕和の映画は好きなのだけれど、特にこの『海街diary』は彼の映画としてはシリアスにすぎるところもなく(もちろん、そのシリアスかつ社会派のアプローチが彼の作品の醍醐味なのだけれど)、落ち着いて楽しめる。今回が確か2度目の鑑賞なのだけれど、やはり巧い映画だと思った。梅酒や桜吹雪といった四季の特色がきれいに活きた作品であると思ったのだった。

前に日野啓三のエッセイ的小説を読んでいた時に、人類が死の概念を言葉にするようになったのはいつからかという考察が為されていたのを思い出した。死……私なら私が死(自分の死や他人の死)を初めて「発見」したのはいつのことだったか。私もいずれ死ぬ。眼前の人もいずれ死ぬ。その不条理な運命をどう捉えるか。「盛者必衰」の無常をそこに見るか、個体の死を織り込んで生物は進化し続けると考えるか。『海街diary』を観ていてそんなことを考えた。亡くなった樹木希林が安定した存在感を醸し出していたのが印象的だった。

何度も書いていることなのだけれど、私は酒に溺れていた頃自分の寿命は40もあれば充分だと思っていた。それまでになにも為しえないならそれまでだ、と……そして、早稲田を出た後都落ちのように今の会社で仕事を始めてからも、自分はこんなところでは終わらない、いつかビッグになる、と思っていた。20代・30代で自分は筆で名を成す、アルファブロガーやアルファツイッタラーになる、と信じていた。だが、現実はそんなに甘くない。私は遂にビッグになれない現実と肥大した野望のギャップに苦しみ、自分で自分を生きづらくさせていた。

もちろんなれるものならビッグになりたいし、今書いている映画評や日記が多数の読者に読まれるなら嬉しい。金も名声も欲しい。だが、前ほどにはそんな野望に追い立てられて自分が苦しむということもなくなったと思う。一ヶ月ぶりに今まで書いた映画評を少し読み返していて、やはり思うのは自分が「めんどくさい人」であり、ねちねち考え込まないといられない人なのだなということだった。そして、金や名声も大事だがそれ以上に私にとって大事なのはそうしてねちねち考える自由なのかなあ、とも思ったのだった……。

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