跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/11/15 BGM: K. Leimer - Almost Chinese

今日は遅番だった。今朝、バタバタしていて参加しようと思っていたZoomでのミーティングにも出られず、心残りなままイオンに行きともかくもいつものように朝活として時間を過ごす。だが、やるべきことはいろいろあるにもかかわらず(たとえば、月末の木曜日のプレゼンテーションの準備や英語研究会の課題図書のロアルド・ダール『マチルダは小さな大天才』の原書の精読)、結局まったく手につかずそれどころかやる気すら見失ってしまい早々にめげてしまった。寒暖差が激しすぎることが原因なのだろうか。結局今朝はそんなわけで貴重な朝の時間を実に無為に「つぶして」しまった。そんなこんなで11時頃だっただろうか、ふとTwitterで紹介されていたことから暇つぶしにと思って読んでみた新聞記事が目を引いた。

その記事によれば、日本人の基礎的な英語能力がある調査によって減少している傾向があると指摘されていたのだった。知られるとおり英語は日本においては公用語ではないが、そのハンデ(?)があるとはいえ伸び悩みがあるというのはなんだか悲しい。別のユーザーが、この調査の信憑性が疑わしいことを指摘しておりそこから喧々諤々の議論も生じているようで、ぼくはそこまでフォローできなかった。したがって、果たして日本人の英語能力が記事・調査のとおり堕落していると言えるのやら言えないのやらについてはわからないままだ。しかし、少なくともたしかに説得力を感じるというかたしかに「そうだろうな」と思わせられるほどの納得感を得られることもまたたしかでもある。なら、いったいどうしたってこんな感じで「日本人の英語力は他国より劣っている」という理屈を信じてしまったりするのか。そして、もし仮にそういうことで劣っているんだとしても、だったらなにが問題だというのか。いや、マジメに考えている。

過去、ぼくの中にはたしかに欧米(つまりヨーロッパやアメリカ。したがってアジアは当時はまったく眼中になかった。なんともはや!)へのあこがれがあったことを認めたい。フリッパーズ・ギターもいいけど、本場のアズテック・カメラやスタイル・カウンシルにはかなわないね、というような軽薄な考えがあったかなと。いま、ぼくは日本にもいいところはさまざまあると感じる。日本語だって美しいエッセンスを持っている。英語だって同じように美点を持っている。あたりまえだ。問題は次のようなことであるはずだ。日本語という言語の分野のリミット(限界)を超えて英語を学ぶべく歩み出す必要はどこにあるんだろうか。日本語が充分・ペラペラにしゃべれたらそれで充分なのに英語まで学ぶ必要はどこにあるんだろうか。

別の角度から問うとこうなる。ぼくがモノリンガルだとしても、島国の日本においてはスムースに平穏な暮らしを享受することができる。英語がしゃべれなくともコンビニでの買い物や公的機関の使用などで不自由を感じることはそんなにない。なだ、英語を学ぶべき動機(インセンティブ、というのだろうか)はどこにあると言えるのか。いい仕事やいい人生のためとでもいうことになるのか。

むろん、ぼくはプロの批評家やコメンテーターとしてメシを食っているわけではないのでただのトーシロの立場からしかこの問題には物申せない。が、トラブルなく過ごせるモノリンガルの人間であるにしても、英語を学ぶことは続けたいとも思う。そうした継続的な試みを経て、これまでDiscordやさまざまなソーシャルメディアで友だちを作ったり人間関係を豊かにはぐくんできたりした、そこから学べたもの・会得できたものはきわめて大きかったと思うからだ。でも、それは結局学業や仕事で英語を使うことがついぞないぼくだからの話だ。太平楽というか呑喜坊主というか、そんな謗りを免れ得ないことを恥とともに受け止めようとも思う。