跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/16 BGM: Stevie Wonder - We Can Work It Out

今日は遅番だった。朝、今度の日曜日に参加するミーティングで話す「ぼくの英語関係のアクティビティ」について煮詰める。ぼくは毎日英語で日記を書いたり毎週火曜日英会話教室に通ったり、水曜日にZOOMで英語関係のミーティングに参加させてもらったり突発的にclubhouseで英語関係のルームに入ったりして英語を磨いている。それ以外だとぼくにとってはDiscordやMeWeで英語でチャットをしたり、あるいは英語でメモを書くことも大事な英語の練習だ。でも、言っておきたいのはぼくは昔からこんなに真面目に英語に取り組んできたわけではまったくもってありえないということだ。ぼくが高校生の頃は、ずっと英語の授業を退屈だと思って過ごしていた。ぼくにとってこんな英語なんて無関係だと思って生きていたのだった。もちろん、時代は国際化だと大人たちは口を酸っぱくして(あるいは目を輝かせて)語っていたのだけれどぼくにとってはピンと来なかった。早稲田に入ったとは言えそれは「受験英語」を鍛えたということしか意味しない。「使える英語」(大橋巨泉)を鍛えるのはもっと後になって、社会人になってからのことだ……40代に入ってからのことなのだ。

ぼくが生まれ育った宍粟市は実にひなびた田舎町だ。だから、少なくともぼくが10代の頃は「インターナショナル」で「ソフィスティケート」された「アーバン」な雰囲気とは無縁に思われてそれで英語が身近に感じられなかったというのがあったのかもしれない。外国人もまだまだそんなに見かけなかったし、したがって実際に英語を話す機会だってなかった。だから「受験英語」を鍛えて大学に入ったら、それで鍛えた目的は達せたとも言えるわけでそれ以上鍛えるのをサボってしまった。でも、「時代は変わる」。20歳の頃、1995年にぼくは大学のパソコンを通して佐野元春のウェブサイトに触れる。これがぼくとインターネットとの出会いだった。当時、インターネットが世界をグローバルにつなぐと信じられて、さまざまな夢物語が語られていたと記憶している。でもぼくは実にボンクラなもので、そんな時代の流れの変化の中にあってさえ「使える英語」を学ぶことがピンと来なかった。だから英文学まで学んだというのに、「使える英語」を学ぶことはぜんぜんしなかった。実にのんべんだらりと遊び呆けて暮らしていたのだった……。

その後就職で大失敗して、ぼくは20代・30代を失意の底で暮らすこととなる。毎日毎日酒を呑み、思うことと言えば「もう死にたい」「生きていてもいいことなんてない」ということばかりで……そして40代になって、ぼくはそんな日々を暮らすことが悔しく思えてきて、だから酒を止めて生き直すことにしたのだった。そして「使える英語」をぼくなりにイチから謙虚に学ぼうと思って、宍粟市国際交流協会の方々と交流を深めて冒頭に書いたようなアクティビティを始めた。これは強調したいのだけど、ぼくの英語はしょせん「純ジャパ」な英語だ。留学経験なんてないのだから。でも、この英語がぼくと相手をつないでいるようで、そこから「きみの英語はクールだ」「あなたはアメイジングな人だ」と言ってもらえるようにもなった。「使える英語」ということでいえば、ぼくは今日も卑猥な話から政治的な話までいろいろなことを語る。ああ、「時代は変わる」し、人もそれに伴って変わる。それがこの世の「諸行無常」の理なのかもしれない。

といったことを考えて……そしてぼくはふと、「自分の夢」について考えた。「ぼくの夢」。それは、これは仕事になるかどうかぜんぜんわからないけれど、「ブリッジ(橋)」のような人間になれたらいいなというものだ。ぼくと、異文化に属する相手をつなぐような人間。具体的には翻訳家や通訳ということになるのだろう。日本語をしゃべれなくて困っている人と日本人をつないだり、逆に日本人が英語で海外に自分を主張したい時にそれを助けたりしたいな、と。ぼくは学生時代、カリスマ社長の孫正義の講演を聞いたことがある。彼は「夢を持ちましょう!」と高らかに語っていた。でも、当時ぼくは「そんなことを言えるのはあなたが成功者だからであり、したがってあなたは傲慢極まりない人でしかない」と思っていた。そして、「夢なんていらない。現実に徹してクールに生きるのがクレバーな生き方だ」とさえ思っていた……でも、今ぼくはそんな「ブリッジ」「コネクト」な役割に魅力を感じている。大言壮語かもしれない。でも、ぼくだってこんなふうにぼくなりの夢を語ってもバチは当たるまい、と考えているのだけどどうだろうか?