跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/13 BGM: 真心ブラザーズ - 空にまいあがれ

蓮實重彦『反=日本語論』を読んでいると面白いエピソードに出くわした。この本で、蓮實は彼がテレビを通して見た光景について書いている。そこでは外国語を流暢にしゃべる少年たちが、蓮實曰く「馬鹿正直」と言ってもいい態度で海外の人々を相手に自分の思いをぶつけていたのだけれど、それに触れて蓮實は「どの国の人間であれ、自分の外国語の力にどれほど自信があっても、外国語では意見を表明すべきでない」(p.47)と語っている。「外国語を話すことによって、しかも相手の意向にそって一つのまとまった考えを主張しようとする場合、人は必要以上に真面目になって、その真面目さがかえって途方もない不誠実へと自分を導いてしまうからである」(p.47)と。つまり蓮實はここにおいて、外国語で立派な意見を語ろうとしていた少年たちがその真面目さゆえに変に力んだ「社交的な」態度になってしまっていたことに冷や水を浴びせている。そしてこれは真面目に、なかなか傾聴に値する意見だと思った。ぼく自身は外国語として英語を話す場合、そんな風に「社交的」になってしまうことから来る滑稽さを免れているだろうか。

蓮實のこの見解から、ぼくはむしろ「外国語であれ母国語であれ、外に対して自分を表明することは本質的に滑稽なことなのではないか」とも思ってしまう。ぼくがこのようにして書いている日記だって充分に滑稽だ。誰に頼まれたわけでもないのに、ぼくはこうして自分の思いをしたためてそれを「他人に向けて」表明する。でも、ぼくはその滑稽さが悪いことだとは思わない(蓮實だってそれを「悪いこと」とは言っていないとぼくは受け取る)。滑稽かもしれないにしても、言いたいことは言ったほうがいい……だけど確かに、そこに「外国語で話す」というファクターが入ってくるとその滑稽さは増すと言える。ぼく自身、英語で話していると妙に明るくなってしまったりフランクになったり、あるいは「社交的」になってしまったりする。蓮實がまさに指摘するような滑稽さからぼくも自由になれていない。これはいったいどこから来るのだろう。もっともこれはぼくだけではなく、外国語を話すことで他の人もこうした「変化」を感じるものだとぼくは聞くのだけれど。

「外国語を話す」ことは、その意味では自分の中で別の「モード」「人格」が立ち上がることではないかと思う。「ペルソナ」と言ってもいい。それは人に過度に「社交的な」仕草を強いてしまうところもあるのかもしれない。蓮實が見抜いた「滑稽さ」もそこから来ているのだろう。もちろん蓮實に反論をぶつけることもできる。「真面目さ」「滑稽さ」はそんなに悪いことなのか、と。蓮實的な冷笑主義も確かに大事な視点だけれど、ぼくはついつい「社交的」かつ「生真面目」になってしまう自分を愛する……といろいろ書いてしまったけれど、この『反=日本語論』はなかなか示唆に富む面白い本だと思った。大学生の頃に1度読んだことがあったのだけれど、ぼくはその頃はまだ今のように本腰を入れて英語を勉強しておらずしたがって外国語のシビアさやリアリティとも触れ合った生活をしていなかった。今読むとどんな気づきをもたらしてくれるのだろうか。

夜、英会話教室へ行く。そこで今日は自然を鑑賞するという話題で盛り上がった。宍粟市、あるいは日本のさまざまな場所にある豊かな自然。そして世界の各国に存在する自然……ぼくは最上山公園もみじ山について話した。新緑の季節にもみじ山に行って緑豊かなもみじの葉を鑑賞したのがとても印象的だったこと……ぼくはその席で、自分の口から英語がスラスラと出てくることに驚く。そして、蓮實が言っていたことについても考えてしまった。蓮實が言いたいのはこうして「スラスラ」「ペラペラ」言葉を発してしまうことの中にある、ある種の「いかがわしさ」ではないかと思ったのだ。コントロールできるわけのない外国語が、にもかかわらず口からポロポロとこぼれ落ちてくる……確かにそう考えていくと外国語を学ぶということは謎だ。その教室に話を戻すと、いろいろな方の英語に触れて自分自身の考え方もリフレッシュされたように思われた。確かな幸せを感じて、今日のレッスンは終わってしまった。