その時代、実を言うとぼくはそんな感じでネットに触れていくうちに、すでにそうしたインターネットに「慣れて」いた大人びたユーザーたちの洗練された、知的な立ち居振る舞いというか態度に惹かれていくこととなる(彼らとていま思えば40代かそこらで、パソコン通信なんかの洗礼を浴びていたのかなとも思うのだが)。したがってこんなことを自問自答してしまい、それこそドツボにはまる寸前まで陥った。なぜ彼らはそんなふうにしてプライド高く自説を主張できるのか。どうやったらぼくはそんな彼らに倣って自分自身の見解を外に出せるようになるのか(もっと本を読むべきなのか、それともまだ社会人ではないぼくにはハードルが高いのか)。いや、笑われてもしょうがない実に「しょーもない」悩みだ。でも、当時のぼくときたら友だちもおらず、世界がせまい四畳半のアパートと大学の図書館、そしてレコード屋とサイバースペースで構成されていて実に味気ない暮らしをしていたのだから視野がせまいわけだ。ぼく自身、こんなことを書きながらあらためて赤面してしまう。
時は残酷にも過ぎ去り、ぼくもその後アルコールを浴びるように呑みつつ2ちゃんねるやTwitterに入りびたる生活をしたりして、さんざんな目に遭ってしまった。まあでもそれはまた今度。話を戻すならば、そんな思い出話をここさいきんふと思い返すことがあった。いまはぼくはまあそれなりにデカい態度、デカい面(真面目に言えばそれなりの自尊感情・自尊心)を発揮して世界に自分を誇示することができているんじゃないかなあ、とは思う。でもそれはもちろん、ぼくが完全無欠だというからではない。あたりまえのことだ。ミスだって毎日毎日こりずに「量産」している始末なのだから(AIだってミスをすることが如実に明かされているこのご時世である)。でも、だったらなんでそんな不完全でなんというか「イケてない」「ダッサダサ」の自分を晒せるのか。それはぼくにだってわからない。まあ、いろんなソーシャルメディアで冷酷無比なコメントを浴びせられてすれっからしになったからこうなったのかなあ、とは思う。
あるいはいまに至るまで、ぼくは自分をなんとか鍛えてきたかなとは思う。いろんなところで知り合った友だちと自助グループにおいてZoomミーティングやリアルでのイベントをこなし、きどった言い方をすればこのハートを「磨き上げた」というかなんというか。そんなイベントをこなすうちに、ほかの参加者の方の寛大な心に許されてミスをしてもいい環境でブザマな姿をさらしていくことでこうなりえた、という。なんとかいまはそんな経験を経て、自分と他者との間に「線(バウンダリー)」を引き、自分の境界と他人のそれとを分けられるようにもなったのかなと思うのだった。とりわけ、とても「頭のいい」「批評家的な」人たちに「アテられない」ように気をつけるようになったというか。そう思ってしまいつつ若いころのぼくを振り返るならば、そんな環境こそがぼくが求めていたものだったのかなという気はしている。