単純な生活

Life goes on brah!

2024/10/17 BGM: The Beatles - And Your Bird Can Sing

どのようにしてこれまで、とりわけTwitterFacebookといったソーシャルメディアがこの世に現れる前に、ぼくは自分の中に煮えたぎる欲求不満を外部の世界に吐き出してこれたのかについて考えている。そしてTwitterの時代が始まったあと、この世界はそのTwitterの発展とからめてどのように成長・変化してきただろうか。個人的には最近はぼくはTwitterをそんなに頻繁に使うこともなくなり、自分の中の欲求不満についても公にすることはめったになくなってしまった(少なくとも、過去に呑んだくれていた頃と比べると少なくなったことは間違いない)。

いったいどうしてこんなふうに自分が変化してしまったのか、それについて明確な理由を語ることはできない。「おのずと」そうなった、というのが率直な実感である。ただ、たぶんにこれは(いつも書いているように)友だちとのつながり・コネクションがとても現実世界においてタイトなものとなって、たしかにぼくを支えていると思えるようになったからかと思う。だからソーシャルメディアによって過去魅惑されっぱなし・振り回されっぱなしだったぼくもここにきてその魔性の魅力から身を引き剥がすことができるようになったのかもしれないと思う。

たしかに……過去、ぼくがほんとうに独りぼっちで職場からも使えない人材として扱われ、見捨てられて暮らしていたころ。そして、自分の内面世界に引きこもって独りで飲酒に耽るしかなかったころ、Twitterのマジカルな(そして破壊的ですらある)魔性の世界に引き込まれてしまい、そのTwitterを通して現実世界にあらゆることを吐き出し、ずいぶん顰蹙を買ったものだ。発達障害と診断されたころのことだったか。そのころは自分の特性を実にネガティブにばかりとらえて、発達障害者としての暮らしがどのようにいまいましく間違ったものか、あるいは端的に不条理きわまりないものであって無意味なのか、そんな呪詛を書きつけていたとも記憶している。

ならば、どのようにしていまぼくはそうしたソーシャルメディアと向き合い使い続けられているのだろうか。いまのぼくの使い方としては意見を交換し合い、クリエィティブな対話ができればと思っている(いや、綺麗事かもしれないが)。ソーシャルメディアの使い方はそれこそ十人十色・千差万別であってぼくに普遍的な答えを編み出すことなんてシンプルに無理に決まっているが、少なくともぼくは自分自身のコミュニケーション・スキルを信頼できる友だちとリアルにおいて鍛えてきたことが思い出されてきて、そうして鍛えられたスキルこそがぼくのソーシャルメディアとの向き合い方を変えたのかなとも思う(その友だちとは、それこそアウトドアのイベントにまで行ったことがあった)。そんな思い出深き出来事を振り返り、いま思うのは自分の中にあった恐るべき野獣のような承認欲求が過去には確実にぼくの中にあって、それが名声やもっと卑俗なものを求めてぼくをコントロールさせて、必然的にその縛りの中でぼくはもがき苦しむしかなかった。でも、それは強迫的・脅迫性の力を失いぼくもやっとこさその承認欲求というケダモノを手懐けられるようになったのかもしれないと思う。

というか、ソーシャルメディアの思い出をこうして振り返ってみるといまぼくはこう言える。過去の自分のソーシャルメディアとの向き合い方・考え方はことごとく間違っていた、と。もっと言えばアホだったとさえ思う。誰からも頼まれたわけでもないのに、WAISのテストで知ったIQの数値まで書き込んだりして。汗顔の至りだ。もうすでに長く書き込んでしまったので、自分の中のそうした承認欲求とどう向き合ってきたか(断酒会や自助グループ英会話教室などに赴くことで)についてはまた後に書けたらと思う。過去、あれほどぼくを苦しめてきて人生そのものを炎上沙汰などで破壊する寸前まで行った承認欲求についてだ。それは個人的な繰り言を超えて、なにかをお伝えできる礎になるかもしれないと信じる。