跳舞猫日録

Life goes on brah!

2024/08/13 BGM: Carnation - 学校で何おそわってんの

今週のお題「まつり」

今日は早番だった。今朝、今日も今日とて英会話関係のZoomミーティングに参加してそこでいつものように英会話を楽しむ。今日のお題はドイツの映画館のある取り組みを通して、映画を観るということの醍醐味を中心にいわゆるサブスクリプションで映画を観るということについてだった(たとえばネットフリックスやAmazonプライムビデオといったサービスが挙げられうる)。そして、映画を観ることの文化についても。いままで観てきた映画で印象深かったものをシェアし合う。たとえば、ホストとして会話を切り盛りされた方は『バービー』を薦めて下さった。その方がぼくに話を振ってくださったので、小津安二郎東京物語』について話した。いや、ウケ狙いではなくきわめて大真面目にそんな古い映画を挙げてしまったのだった……。

今日の昼食時、明日お会いする約束を交わしているとある友だちのことを漠然と考える。いまは「お盆」であり、いつもならこの地を離れて暮らすその友だちも帰省しているとのことでLINEでやり取りして再会する約束を交わしたのだった。ランチとして寿司をつまみつつ、過去にその友だちの機嫌を損ねてしまったことを思い出した。というのは、まさしくその友だちとLINEであれこれやり取りしていた時に日記だったかFacebookのぼく自身の書き込みだったか、いずれにしても自分の思いを書いたものについてぼくが「心のゴミ」「ガラクタ」という言葉を使ったからである。いまだったらまあ、「原石」「アンカット・ダイヤモンド」と書くのかもしれない。

なんだってそんなふうにして自虐的なことを口走ってしまうのだろうか、と赤面してしまい……どうしてそんなふうに自分の悪口をあれこれ言ってしまうのか。別の友だちが言ってくれたことをふと思い出した。「話を聞いていて思うけれどあなたはそんな自分を変えたいのかどうなのか、それがまったくわからない」。このことを思うに、論拠がはっきりした答えにはなっていないかなとも思うけれどそれでもつたなく答えるなら「ぼくはこの自分を変えられない」「このままで行くしかない」となってしまう。心の核の中で思うのは、こんなふうに自虐・自嘲的にあれこれ卑屈になってペコペコというかヘコヘコというか、そうして生きてきたのが染み付いてしまっているのかな、と。言い換えればそれがもう「習い性」なのだ……なんだか『クライング・ゲーム』という映画の逸話みたいだけど。

仕事が終わり、グループホームに戻って夕食を食べる。外では公園だったかで花火大会が開かれ、納涼夏祭りもあって賑やかだったそうだがすでに1万歩も歩いてクタクタに疲れてしまっており、汗もかいていて人混みの中に行くにはまたシャワーを浴び直すかなんかして体臭をケアする必要もあろうと思って、そう考えるとめんどくさくなったので止めた。それでそのかわりに、ある方が主宰するZoomでの会合にお邪魔させてもらう。そこで発達障害愛着障害、その他ぼくたちの生活の気づきなどを語り合う。自己愛、つまり自分を愛すること(いたわる・ねぎらうこと)を学んだとも思った。

その後、読みかけていた林志弦(イム・ジヒョン)『犠牲者意識ナショナリズム』をもう少し読む。実に読み応えあり、まだ2章分しか読めていないもののすでに本書が語るように世界レベルでぼくたちは個々の国・地域の持つトラウマに満ちた思い出・惨禍を共有し合える時代になってきているのかなと思った。その帰結として、いまやホロコーストの記憶や従軍慰安婦問題、最近ではMeTooなどのムーヴメントをめぐる問題式がソーシャルメディアでシェアし合える現象として見えてきているのかな、と。それがグローバリゼーションというか、グローバルスタンダードということなのかなあ、とも思ってしまった。