その後、両親が住むとなり町に戻る。日帰りでしかないのだけれど、いちおうは帰省のつもりだった。そこでさまざまなことを話し合うのがぼくにとっての主な目的だ。両親はLINEやFacebookを使うしぼくのはてなブログも読んでいるようだけれど、今回はZoomや電話やLINE通話といったヴァーチャルな通信手段に頼りたいとは思えなかった(Zoomをインストールするのもたいへんだろうし、あるいはできたとしてもなんだか「味気ない」とか「隔靴掻痒」といった感情が湧いたりもしたのだった。たまには両親と昼食を摂りつつ気がねなく話したいとも思った、という)。
それで昼食を摂り、その後ぼくたちはそれぞれの生活について話す。特に両親はここさいきんのぼく自身を見舞った、実にやっかい極まりなかったトラブルについて心配していたと教えてくれた(親知らず抜歯のこと、その後目まいがありあっちこっち病院にグループホームの方々の甚大な協力を経つつ通院せざるをえなかったこと、そのあいだどんなふうにありがたくも友だちに助けてもらいながら自分を支えていたか)。両親はいまのぼくの暮らしを褒めてくれて、そこに至るまでにたいへんだっただろうとあらためて言ってくれた。まあ、いじめもあったし発達障害とわかるまでにそれはそれはゴタゴタがたくさんあったし、わかってからも酒に溺れたりしてエラい目にあったりした(そして両親を確実に巻き込んでしまった。ブログ『宍粟画』ではそんなことも書きたい。もちろんぼく自身の過去の至らなさに対するこの上ない恥と、見捨てないでグループホーム利用まで支えてくれたことを感謝して)。母はぼく自身についてこんなおもしろエピソードを教えてくれた。子どもの頃、保育園に通っていたころからぼくはまわりの子が外に出て遊んでいるあいだ1人で職員室に行ってそこの本棚の本(もちろん大人向けだろう)と戯れて時間を過ごしていたのだそうだ。「栴檀は双葉より芳し」ということわざもあるとはいうけれど……。
その後グループホームに戻り、回想ブログ『宍粟画』の記事を書く。今回は「フラッシュバック」、つまりトラウマがどうぼくの生活について戻ってきたりするかを書いた(具体的には、ぼくとまったくもって関係のないいじめやハラスメントのできごとであっても、そういったことが書かれている記事や映像に触れるとそんなぼく自身のつらいことが蘇ったりするのだった)。その後、フランスの著名な思想家・哲学者だというエマニュエル・レヴィナスについて書かれた熊野純彦による入門書『レヴィナス入門』を繙く。読みつつ、熊野に倣って「この世界はいったいなにを語りかけてくるのか」「世界が『裸形』としてあること、つまりあらゆる虚飾をはぎ取られた状態であることとはどういうことなのか(ごめんなさい、うまく言えません)」なんてことをあれこれ考える。フランス語なんてろくすっぽできないのでレヴィナスの「レ」さえわからないが、この本は実に悲しく、少しばかり心地よく感傷的な気分をもたらして本格的な「癒し」と「問い」へと導くいい本だと信じる。