休みだったのだけど、さっきも書いた通り鬱々した気持ちはぜんぜん晴れる気配がなく午後もそんな感じでどんよりした気持ちに完全に取り憑かれてしまい、「もうダメかなあ」「ワイ、これまでの人生でなにやってきたんだろう」とあれこれ考え込む。理由がわからなかったのでどう対処することもできない。なので退屈しのぎに本を開いて、とはいえ完読とかそんなことはハナからあきらめて「ルーズ」にページをパラパラめくって過ごす。ただ、時間がつつがなく過ぎればいいのである、それで充分だと……心を本の流れの中で解放・開放させる。ちなみにその時めくっていたのはあの泣く子も黙る『ロリータ』の著者ウラジミール・ナボコフの自伝『記憶よ、語れ』で、言うまでもなく実に凄味に満ちたメガトンパンチ並みの重みを持つ傑作。だが、ぼくの心がそんな体たらくだったのでまったく響かない。あきらめてしまい、結局ものすごくムダに味気ない時間を過ごした。
もしかしたらそんな鬱々した気持ちに関して、理由をあれこれ考え込んでもはじまらなかったという、それだけのことだったんだろうか。加齢(更年期障害、もしくは「中年の危機」)から来たという可能性もあるし季節が変わりつつあるのでそんな原因から来たものという可能性もある(別の言い方をすれば、そんな他愛もない話だとも言える)。夕食後、さっさと休むか寝てしまおうかと思い眠りのしっぽを捕まえんとあがく。布団に入って目を閉じて……でも、まだ眠れなかったのであきらめてそれでさっきもやったような本のページのザッピング(つまり、でたらめに読んで投げ出す行動)をして時間をつぶす。『カフカ断片集』やテジュ・コール『オープン・シティ』、リービ英雄のエッセイ集『日本語の勝利/アイデンティティーズ』などを開いてみたりもした。
なんというか、こうして振り返ってみるにアホだなあ、とも思う。夜だったにせよ散歩するかネットフリックスあるいはAmazonプライムビデオで映画なんか観るか(とりわけ、ヴィム・ヴェンダース『東京画』を観直してみるとか)したらよかったのかな、とも。でも、読書から離れて頭が自由・野放しになってしまうと非常にしょーもないアイデアに呑み込まれてしまうのは必至でもあった。「ワイ、いつ死ぬんかなあ」とか「この世界はどうなるんだろうか」「10年後、ワイはこの目でどんなものを見ているんだろう」みたいな。こんな、実にきたない表現を使うとおならのようなアイデアが出てくる場合はやはり休息や睡眠不足がたたってという可能性もある。それだけのことかな、と。だからまあ、リアルなおならのように体内から空中に放って過ごす。10時、グループホームの管理陣との取り決めに倣って眠剤を飲む。22歳、大学4年生の頃にぼくはメンタルクリニックをはじめて訪れたのだった。それからこんなふうなクリニックというか精神科通いは続いている……といったことをあれこれ思い出し、メモワール(回想録)として残しておきたいことはまだあれこれあるなと思った。ならば、「ワイはまだここでくたばるわけにはいけない」とも思ったのだった。
