この本を読み終え、こんなことについて考え始めた。過去、ぼくはノーテンキにもこんなことを考えていた。というのは、ぼくはもっと勉強して英語を身につけてペラペラに喋れるようになれば、その流暢な外国語(とりわけ「グローバル」言語たる英語)のスキルによってもっといっちょ前のコスモポリタンというか国際主義者というか、なんにせよこの狭苦しい社会を睥睨する(というか「見下せる」)人間になれると思い込んでいたのだった。そうして努力して学ぶことでぼくもこの日本のせせこましい閉鎖的な「クニ」を超えたスーパーパーソンになれる、と。もちろんこんなの相手にするだけムダというか、端的に陳腐でアホらしい偏見に過ぎない。ぼくも書いていて恥ずかしくなってくる。だが、書いたようにぼく自身確実にそんな思い込みにとらわれていたことは事実であって、したがってそんなウンコみたいな考えを自分から取り除くべくいまなお苦吟している。リービ英雄の作品に話を戻すと、そんな過去のぼくみたいな人間にベンも向き合わねばならず、したがってずいぶんイライラしたことを読み取れるとぼくは思った。
ゆえにぼくは、苛立ちや怒りを率直に(初期の中上健次・村上龍の青春小説の逸品たちを思わせる忌憚のなさでみずみずしく)見せるベンに共感を抱く。と書くのは、こんな読み方は端的にはしたないというか子どもじみていてわがままな「自分語り」でしかないのだけれど、でもぼくだって若い頃は(とりわけ、発達障害者と分かる前は)ぼくもやっかいでぜんぜん楽しくもなんともなかった「青春時代」を生き抜くために他人とあれこれトラブルを起こして揉めてエラいことになったりせざるをえず、骨折り損な思いばかりが残る羽目になったからだ。思えば高校時代の放送部や大学でのサークル活動、それから宮台真司絡みで知ったとある自助グループでの活動でぼくも仲間になれればと溶け込もうとしたが、決まって気まずい思いをして決裂するのが関の山だった(あまつさえ嫌われ、「人格障害」扱いされ尊厳・全人格まで否定されたりもした)。なんでぼくはこんなふうに差別されないといけないのか。ぼくはしょせんはアウトサイダー(異端者)にすぎないのか。友だちとしては認めてもらえないのか。そんなことをずいぶん苦悩したりしたっけ。
それはそうと、話は唐突に変わるが今日は夜にとある方とDiscordで通話機能を使ってひと時語らう機会を設けていただくことができた。主にそこでは発達障害について(ニューロダイバーシティという概念を軸に)話し、その相手の方にぼくがいくつかイシューを提示する。たとえばこんなライフハックを試したとかこんなことで困っているとかいったことだ。先にも書いたような話になるが、若かった頃はぼくはいったい発達障害がなんなのかぼく自身ろくすっぽわかっちゃいなかったこともあり、だから人にうまく説明できずストレスフルな思いに苛まれたりもしたのだった(ぼくがひとえに無知だからそんな有り様なんだ、という誹りは否定できまい。でも、この地方都市で「アスペルガー症候群」なんて言葉を知っている人はほとんどあの頃はいなかったのではないだろうか)。いま、ネットやリアルの社会で価値ある・貴重な情報を分有することができる。楽観的になりすぎるのはもちろんはしたないが、この激動の変化はつぶさに見ておきたいと思った。