こんなふうに書きつけてきたように、この心の中にはおしゃべり好きなパーソナリティがあってそいつがとにかくなにかを話したがってウズウズしていて、その語りが誰かに受け容れられるのを待っている(それは「承認欲求」なのかもしれない)。10代のころの自分を思い出す。ジョージ・オーウェルはエッセイの中で彼自身すでに幼少の砌(みぎり)から、つまり幼心に作家になる野心を煮えたぎらせていたと書いていたと記憶するけれど、ぼくもそんな感じで作家になるべく子どもながらあこがれを抱いていたっけ。『ロッキング・オン』誌に自分の記事を投稿して結局採用されず歯噛みしたこともあった(そこまでしてライターになりたかったのだった)。だから、FacebookやDiscordといったメディアがサービスを停止したとしてもぼくはこんなふうに気散じ・手遊びでなにかを書いて過ごすのだろうと思う。
悪戦苦闘すること1時間。その間スマートフォンでネットサーフィンしていたら面白い「イングリッシュネーム」に関する記事を見かけたので結局それについて書いてしまう。「イングリッシュネーム」とは英語圏の人たちにも馴染み深いような二つ名を名乗る試みのことで、たとえば「ジャッキー・チェン」「ブルース・リー」もそんな「イングリッシュネーム」らしい。なら、ぼくだってこのリアルネーム(本名)「達郎」が実に男臭く野暮ったい名前なので、子どもの頃はもっと洗練された名前、クールな名前だったらよかったのになあ(それこそ「イングリッシュネーム」だったらなあ)とも思ったりした。それを思うと共感できるところもある。自分の名前が「村上龍」「宮崎駿」「内田樹」「草野マサムネ」だったらよかったのに、なんて。でも、40になり英語を学び始めてそこからアメリカの文化を発見し、友だちとミーティングでいろんなこの市の歴史を発見しなんてことを続けてきたらこの「達郎」という名前も歴史や伝統の結晶なんだなと思えるようにもなったのだった。いまは「ありがたい」とも思う。
宿題を仕上げ、グループホームに戻ってそこで次の木曜のプレゼンテーションのためのたたき台の草稿を仕上げる。その後、ホストを務めて下さる方にFacebookのMessengerを通して送付した。ジャン=ポール・サルトルは眼光鋭く、自由すぎる環境が与えられたとしたらいったいなにをしていいかわからず途方に暮れる、と語っていたのではないかと思い出す。そんな場ではせめてなにをしたらいいかヒントをほしいとも思ってしまい、そんな自由の中でのびのびと動くことができなくなる、と(いや、サルトルじゃなくエーリッヒ・フロムだったか、ぜんぜん違う人だったか……うろ覚えなのだった。ごめんなさい)。なら、この日記やさっき書いた自由課題ではいったいぜんたいなにを書くべきか。それこそ読者諸賢にヒントをいただけたらと思ってしまった。