跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/06/03 BGM: FAIRCHILD - Jelly Eyesは甘くない

今日は早番だった。昨日寝る前、ふと宍粟市にワンス・アポン・ア・タイムというコミュニティセンターがあることを知った。そこでは日本人男性とアメリカ人女性の夫婦が英会話教室を開いておられるらしい。Facebookのページにそう書いてあった。具体的には千種にある施設なので私の住む町からは遠いのだけれど、行けそうなら行ってみたいと思った。そしてともかくも、一度話を聞かせていただくことができないかと思って昼休みに問い合わせの電話をかけた。相手の方はこんなぶしつけな電話にもかかわらず丁寧に応対して下さった。そして、私がそのFacebookのワンス・アポン・ア・タイムのサイトに「いいね!」をしたことで私のことを知って下さっていたようで、私がこうして書いている日記も少し読まれたとおっしゃった。私が「ぼくは実は発達障害があって、だから英語も日本語もスピーキングはぜんぜんうまくなくて……」と言うと「そんなことありませんよ」と励まして下さった。そして、夜に私から一筆メールを書かせてもらうことを約束してその電話は終わったのだった。

そして夜、仕事も終わってやれやれでくつろいだ後に私はメールを書いた。必然的に私の半生を語るメールとなってしまった。この町で生まれたこと。いじめに遭った時期があったこと。大学は東京で英文学を学んだこと。その後こちらに帰ってきて今の仕事を始めてからもいろいろ大変だったということ……そして33歳の時、私はオフでお会いした女性の言葉から自分が発達障害ではないかと怪しみ(当時はアスペルガー症候群と呼ばれていた)、そして「大阪に検査できる施設があるようだから、行って調べてもらおうと思います」と彼女に教えた。すると彼女の第一声が「もしあなたが自分のことを一度たりともアスペルガー症候群だと疑ったことがないなら、その事実がすでにアスペルガー症候群的です!」だった。縮めて言えば「自覚がなかったの?」ということだ……そしてかかりつけのクリニックで大阪の話をしたら「(発達障害の)検査はここでもできるよ?」という話になり、そしてテストを受けて晴れて(?)自分が発達障害者であることを知ったのだった……。

だがしかし、むしろ私の人生は「そこから始まった」……ああ、自分が発達障害者であることを認めるようになってから、市内で同じように障害を抱えた人向けの施設(カフェ)があることを知り、そこに通うようになった。そして40歳の時、今につながるミーティングに参加させてもらえるようになってそこからグループホームに住まわせてもらう話や、果ては今の職場でのジョブコーチの話まで実現して……ああ、なんという人生だ! だが、今は自分の半生についてトラウマめいたことを書きたいとも思わないのでもっと別の話をしたい。そこでの出会いがきっかけで市の国際交流協会が主催する英会話教室に通うようになって、そこで自分の英語を鍛え直した。「思えば遠くへきたもんだ」とは誰の言葉だったか。早稲田の英文学専修まで行ったのに、私は自分の英語にこれっぽっちも自信を持つことができなかったことを思い出す。ペーパーテストでわかる英語力なんてしょせん知れている、と思っていた。そう思うことが「客観的」「現実的」であると思っていたのだ。

ここまで書いて、自分が書いたことを読み返してみた……ふと、今日女友だちからLINEが来たことを思い出した。そのLINEに確か、私の母と彼女が話をしたと書かれていたっけ。母が「発達障害のことをわかってやれなかった」と言っていたと……もちろん私が幼かった頃は発達障害のハの字もなかった時期だ(ローナ・ウィングがその概念を発見するのは90年代ではなかっただろうか?)。だからそのことで両親を毒親だと恨むつもりはない。今はただ、今できることを見つめて前進したいと思っている。話を戻すとワンス・アポン・ア・タイムの方にメールを書きつつ、私は自分の生きづらさが嵩じて自分は(あくまで自分なりに、だけど)理知的に自分の考えを主張するように務めてきたことを思い出した。そして、人間社会が情で動くことに苛立ちを感じてきたとも思った。なぜ人は感情なんていうファジーな要素で動くのだろうか、と。明白な論理を重んじるべきだと信じて……今はそんな極端なことは思っていないつもりだ。結局、論理を重んじつつ感情のブレを大事にして「あいだ」「中庸」を生きることが大事なのかなと思う……どうしてこんな話になったのかな?