跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/01/03 BGM: Oasis - Whatever

仕事中、自分自身と自閉症発達障害の関係について考えていた。昔は私は自分は一生不幸に生きなければならないのだと思い込んでいた。発達障害ゆえに、定型発達者が楽しめるようなこと(私の場合は雑談や車の運転など)を楽しめないまま死んでいくのだと思って……だが40代の初めに出会った方々との縁、その方々と造り上げたグループがきっかけでやっと自分自身のことを受け容れ、愛することさえできるようになった。そのことから考えるに、私はどんな人もホームベースとなるべき居場所が必要なのではないかと思うようになった。私が所属する上述したグループもまた私にとっては重要なホームベースであり、居場所である。

まだ私が若く、それゆえに現代思想の表層だけをかじって満足していた頃、私は「居場所なんて必要ない」「誰もが根無し草・ノマドになるべきだ」と思っていた。下手に帰属する場所(国家や血縁などの共同体)にこだわるから不幸になるのだ、と思ったのだった……そのような極端な発想(夢想?)に至った原因として、私が若い頃にいじめに遭ったりしてひどい人間不信に陥ったことが挙げられるだろう。昨日までニコニコして私と接してくれていた人が掌を返して私から離れていき、悪口を言い出す。そんな光景を何度も私は目撃してきたのだった……。

そんな風に扱われると、私はどうしていいかわからなくなる。処世術として私は道化を演じることさえ試みたことがある。バカになろう、プライドなんて捨ててしまおう、そうすれば愛されるかもしれない、と思って……あるいは積極的に嫌われることをも己に課してきた時期がある。パブリック・エネミーとして生きようとさえ思ったこともある。今、前にも書いたが私には本当に信頼できる友だち・仲間がいる。その仲間がいること、その仲間とホームベースを介してつながっていることが私をして自暴自棄に走らせないある種の心の安全弁となっていると自覚できる。

今、思うのは自閉症発達障害というレッテルが人を分断する方向に向いてほしくないということだ(だから、たとえジョークであっても「定型発達症候群」という概念が使われ、定型発達者こそ「気が散りやすく空気を過度に読みすぎる」といった形で笑いのネタになることを私は危惧する)。そのレッテルを考案した人は、きっと発達障害者たちが生きやすくなるように、引いては人間存在の深遠さがもっと浮き彫りになるように願ったのではないか。そう思うと、レッテルというものをもっとポジティブに利用できないものかと考えてしまう。私自身、生きている中でもっと自分の発達障害と向き合い、ホームベースとなる居場所において仲間から学べないかと思って、そうして生きている(つもりである)。