跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/05/27

明日土曜日、またclubhouseで夜7時からルームを開くことにした。そのルームで話したいことを煮詰める。今度は恋について話したいと思った。私の人生を大きく変えたあの出会い、あの(片思いではあったのせよ)恋……子どもの頃、ずっと女の子から嫌われて過ごしてきたこと。だからずっと、私は愛される価値なんてないと信じ込んで過ごしてきたということ。一生恋なんてしないと決めて、愛されることをずっと諦めてしまって本だけを相手に生きてきたこと……そしてあの出会い。あの出会いが私を大きく変えた。そんなことを話したいと思った。

努めてロジカルに、努めて深く考える。それをずっと自分に言い聞かせて生きてきたと思う。人は空気で物事を考える。本質を見ようとせずに外見だけで物事を判断する。そして、平気で人をいじめて喜ぶ。私が高校生の頃、私と一度もまともに話したことのない人たちが私を嫌うようになり、私のことを嫌いな人たち同士でつるむようになるというそんな風景を何度も見てきた。そんな風景を見ると、私はつくづく日本人の定型発達者が織り成す空気が嫌になった。だから私は空気ではなく、どんなことがあっても動かない論理やプリンシプルに重きを置くようになった。

竹中均『自閉症の時代』を読む。この本では歴史上の自閉症人間についてページが割かれ、彼らの世界の認識のあり方がどうでありえたか語られている。ウィトゲンシュタインスティーブ・ジョブズエリック・サティといった人々……彼らの思想や作品を貫く美学は、実は自閉症の思考のあり方に由来するところが大きいと説かれる。わかりやすくて面白い本だと思った。自閉症の人物は機械になることに憧れを抱くと書かれている。私もまた、機械になりたい、肉体/性欲を捨て去りたいと思ったことがあった。感情を捨て去り、思考するマシンのようになりたい、と。

自閉症の時代』では、結論として自閉症の人間と定型発達の人間がうまく棲み分けることができないかと語られる。時代はインクルージョンを要求しているが、元々相容れない自閉症と定型発達が無闇に混ざり合うことを目指しても(例えばインターネットで見られる炎上騒ぎが示すように)混乱が生じるばかりだ、と(むろん、この結論を出すために著者は相当にデリケートに議論を展開している)。この結論は確かに説得力がある。だが、自閉症者への配慮として合理的配慮を行うことが定型発達者への配慮にもつながりうる、そんな配慮が求められていることを考えると両者を「つなぐ」視点はどうしても必要でないか。そんなことを思った。