跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/05/23

今日は遅番だった。朝、clubhouseでとある英語関係のルームに入る。そこで自己紹介をした。私は発達障害を抱えていて、それ故に受け答えに時間がかかるというようなことを英語で話した。すると相手が「発達障害があるようには見えない」とおっしゃった。それが引っかかった。もちろんこれは悪い意味でおっしゃったわけではないはずだ。受け答えがスムーズにできており、定型発達者と同じくらい流暢であるということをおっしゃりたかったのだろう。だが、私は複雑な気持ちになった。ならば「発達障害があるのがまるわかりな喋り方」というのがあるのだろうかと思ったのだ。

このことを他のグループ/コミュニティで話した。すると、「それはあなたが発達障害者のステレオタイプに収まっていない人間だからだと思う」と言われた。「知的でカリスマ的で、雄弁な人間だからだ」と。私がカリスマ的? とびっくりしてしまったが(職場の同僚にこのことを話したら十中八九「寝言は寝てから言え」と言われるだろう)、発達障害のイメージのステレオタイプというものがあるということは想像できる。ぎこちなく、どもったりゆっくりとしか話せなかったりする、といったものなのだろうと思う。

発達障害をわかりにくくしているのは、こうした「ステレオタイプ発達障害」のイメージに収まり得ない発達障害が存在しうるからではないかと思う。百人いれば百通りの発達障害の姿がありうる、とまで言われるくらい発達障害はバラエティに富んでいる。だから私自身、「あなたは発達障害なんかじゃない。そんなにコミュニティに入ってアクティブに活動する人が発達障害のはずがない」と言われることさえあるのだ。いや、先述した人を批判したいわけではない。いい思考のきっかけを作ってくれた、と感謝したいと思う。こうした言葉が内省と反省を促す。ならばそれはいいことだ。

多和田葉子『エクソフォニー』を読み始めた。私の母語は日本語なのだけれど、英語で考えることは日本語の「外へ」出ることなのだろうか、と考える。日本語圏のぬくぬくした空気から一歩出て、グローバルな空気の中で思考をめぐらせるということ。確かに英語で考えていると思考が明晰になった気がする。いや、日本語で論理的に考えることが不可能だとは思わない。日本語で理知的に考えて語ることはできる。しかし私は自分の思考のベースが英語的だからなのか、英語で語った時の方が「カリスマ的」に見えるようだ。この問題はなかなか奥が深い。