跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/05/25 BGM: Betty Boo - I'm On My Way

怒りとは何だろう。実を言うと今朝も私は危うく「キレる」自分を抑えるのに苦労したのだった。ここではつまびらかにできないが、「仕事上のことがあった」とだけ書いておきたい。自分が発達障害者だからといって、ここまで屈辱的な思いをしなければならないのか……そう思うと自分の宿命が悔しかった。同時に、そうした思いをさせる他人(定型発達者)の底意地の悪さというか平然と嘘をつけるサイコパス的な性格にも不公平さを感じてしまう。平たく言えば、世の中そうして「立ち回り方を心得ている人」というのは確実にいるということだ。他人の前では愛想よく、賢く振る舞うが私には辛く当たる、というように……ああ、世の中はかくも不公平なものだ。でも、そんなふうに考えていくとこれでも今は過去よりずいぶんよくなってきたとも言えるのである。昔発達障害のことがまだまだホットではなかった時は、私自身「ぼくは脳に障害があるんです!!」と叫んで周りから白い目で見られたりしたっけ。あの頃は孤独で、敢えてこんな表現を使えば「戦い方」「戦略」をぜんぜん編み出せてなかったのだ。

マリア・レッサというフィリピンのジャーナリストの書いた本『偽情報と独裁者』を少しずつかじるように読んでいるのだけれど、その中で著者が怒りに適切な位置を与えることの大事さを説いている。怒りを否定したり消し去ろうとあがくのではなく、その怒りが生まれた背景を考えたり怒りから何かクリエイティブなものが生まれたりしないか考えるのが大事なのだ……と私は受け取る。それはもちろんわかるのだけれど、私はマリアとは違って怒りに身を任せることができない。私はつくづく怒るのがヘタクソというか、一時的に叫んだり場合によっては当たり散らして人をぶん殴る寸前まで行ったりしてその場はスッキリするとしても、その後事態が「こじれて」しまいもっと居づらくなるのだった。過去に上司や父親をぶん殴ってやりたいとか、精神的に追い詰めてやりたいとかあれこれ考えたこともあったが、ついにできず恨みつらみをくすぶらせて酒に溺れて生きていたことを思い出す。そこから思うのは人には向き不向きというのがあって私は怒るのが向いていないので控えておいた方がすべてがスムーズに行くのだろうな、という諦めなのだった。

ニーチェはこんなことを書いている。「嵐を起こすのは、もっとも静かな言葉だ。鳩の歩みでやってくる思想こそが、世界を左右する」(佐々木中訳『ツァラトゥストラかく語りき』p.254)。もちろんこれに異論をぶつけられる方もおられるかもしれないが、私は実に深く共感を抱く。結局、私の生き方というか美学の問題として「自分は『キレる』生き方は似合わない」と思うのだった。いやもちろん、私とて人間なので怒りが自分の中で噴出することはある。沸点まで達することはある。なんなら「毎日」あるといってもいいくらいだ。だがそういう場合でも、私はつとめて表に出さずに飲み込むようにしている。そしてその怒りをその場でストレートに出すのではなく、別の形で吐き出すようにしている。私はほんとうにたくさんの方々とつながらせてもらっている。MeWeやDiscordやLINE、リアルや断酒会や英会話教室。そこで吐き出すことでなんとかこの愚鈍で感じやすい自分を律し、「コラえて」いる……ああ、「Christ, you know it ain’t easy(なんてこった。世の中甘くない)」(The Beatles "The Ballad Of John and Yoko")。

夜、ZOOMでのミーティングに参加する。そこでレクチャーを楽しませてもらった。宍粟市にかつて存在したお城について。そこから出土した陶器が語る歴史について……私自身ひょんなことから山歩きを楽しむようになったことを思い出す。その山はかつてお城だったということで、私が何気なく歩く山こそがそうした過去の先人たちの暮らした場所だったという神秘的な事実を思ったのだった。そして、私なら私がたかだか生きられるとしても100年も生きられないという宿命と、その私のちっぽけな存在を超えて残り続ける伝統の神秘についても思いを馳せた。時期が時期だけに、「夏草や兵どもが夢の跡」という松尾芭蕉の俳句を思い出したりして……このミーティングで、各参加者の方からずいぶんいろいろなことを学ばせてもらっている。こうしてコツコツとストイックに歴史や伝統と向き合い、研究し続けておられる方がいる。その事実が励みになると同時に、大げさすぎる言い方かもしれないが「ハッパをかけられた」ようにさえ思ってしまった。私も英語学習を頑張らねば……そうして夜は過ぎていった。