跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/04/09 BGM: Tokyo No.1 Soul Set - ヤード

私という人間は実に単純にできているな、と思う。朝、いつものように「今日も無事に仕事できるかな」と不安になる。「今日こそダメかもしれない……」と。だが、ともかくも職場まで赴きロッカールームでバトルスの「アトラス」を聴きながらテンションを上げる。私はどうあがいたってへなちょこな人間でしかありえない。なので無理はしないで「いつも通りやっていつも通りの結果を出そう」と考えて取り組む。そして何とかあらゆる事柄を丸め込み……気がつくと昼になっていて私は昼休み、電気グルーヴを聴きながらとんかつ弁当を食べているのだった。いったいなぜ自分が仕事ができるのか、いつもわからない。だが「とにかく、やってみないとできるかどうかわからない」という端的な事実があり、そして「やってみたらできてしまう」というメーク・ミラクルが起きてしまうのである。20年以上続けてきた経験は私の身体に確実に蓄積されており、それが私を支えている。


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昼休み、Twitterのタイムラインを眺める。今なお、大江健三郎坂本龍一に関するツイートが流れてくる。彼らのような国際的に活躍するアーティストが、日本の国内で確実に忌み嫌われていたという事実について。私は、それは端的に彼らが英語を話せるインテリゲンチャだったからではないかと考える。これは安直な発想だとも思うが、日本社会は「出る杭」を嫌う傾向がある。日本の社会の同質性を乱す異端はアウトサイダーとして見なされるので、彼らのような天才性を持つ存在は必然的に反感を買っていたのではないかと思う。ひと口で言えば嫉妬があり、羨望があったのではないかと。私はそんな嫉妬も羨望も「くだらない」と思ってしまう。人の価値は英語を話せるかどうかでは決まらない。あるいは、話せる人間が羨ましいならゴチャゴチャ言わず私も虚心に学ぶべきだとも思っている。大江も坂本も元々は何もないところから自分の創作を始めた人たちだ、と。

だが、今でこそこんな御大層なことを宣う私ではあるが過去は確かに私も嫉妬と羨望に身を焦がして生きていたのである。私にも劣等感を感じる要素は多々ある。いくら勉強してもフランス語を喋れるようになれないこと、足が短いことや運動が苦手なこと、などなど。私の知人には確かな知性を有しメンサに入った人が居るが、彼女の知性を確かに羨んで不公平さを嘆いた日々もあったことを思い出す。我ながら実にバカだったなあ、と思う。別人になることに憧れたりせず、「Be Thankful for What You Got」の精神で生きることこそが要だとわかるようになるまで時間がかかった。過去の私が今の私、「英語を話せる人間が羨ましいなら自分でも学べばいいじゃないか」と語る今の私を見れば「それは『強者の論理』だ」となじるだろうか? その可能性もゼロではないなと思う。「強者の論理」……おかしなものだ。ということは私は確実に「生まれ変わった」のだろうか。

ならばそうして「生まれ変わる」ことができたのはなぜか。結局それは思うに(自分にとって都合のいい記憶ばかり反芻している可能性も踏まえてあえて書くが)、実際に断酒会や発達障害を考えるミーティングの席などで友だち・仲間と切磋琢磨したからではないかと思う。傷だらけの我が身を晒し、さんざん弱っちい自分を見せ恥をかいて……これはTwitterに入り浸って自分を完璧超人かつ聖人君子のように偽って気取る癖がついていた自分にはいい薬になったと思う。そして今、私はみっともないところのある自分を等身大のものとして認める。もちろん人間なのだから自己嫌悪に至ることもある。自分の自閉症に苛立つこともある。だが、それでも私は自分の内側からこんこんと湧き出る「自尊感情」を感じることができる。ことさらに威張ったりしなくても、ただ今日みたいな日春の温もりを感じながらふと「天上天下唯我独尊」(これはつまり「誰もが尊い」という端的な事実を指し示す言葉だと解釈する)という真理が自分を貫いているのを感じる。それでいい。そんなことを考えつつ、私はTokyo No.1 Soul Setを聴く。