朝、病院に行く。そこで先生とお会いし、自分の近況を語る。なかなか眠れないことも正直に打ち明け、薬を調整してもらった。ジョブコーチの方と3人でお会いする約束も取り付ける。その後薬をもらい、すべてが終わった後イオンに行きそこでひと休みする。ヘミングウェイの短編を少し読み、そこで書かれているギャンブラーの生き方に感銘を受ける。彼らはツキに恵まれていない時、ジタバタせずにじっとツキが来るのを待っている。私も同じで今はツキに恵まれていないスランプの時期なので、そんな時は自分のフォームを崩さないで待ち続けることが大事なのかもしれないと思う。LINEで他の方の書き込みを読む。他の方も先が見えない不調の時期を迎えているようだ。自分自身の過去について振り返り、過去にあった運命がもたらした困難の「壁」について考える。それを自分は乗り越えてきたのだ、と改めて思い知った。
昼、スライ&ザ・ファミリー・ストーンを聴きながら職場での自己評価の書類を作成する。その時に飛び込んできたのが大江健三郎逝去のニュースだった。これにはしばし手を止めて、自分と大江健三郎との関わりについて考える。私は一読者でしかなかったわけだが、その読者として大江の作品からはずいぶん触発されたことを思い出す。今も私のグループホームの本棚には岩波文庫の『大江健三郎自選短篇』がある。書類作成を再開しながら、20代の頃に大江は「必読」だと思い込んで難解な彼の作品を読み解こうとしたことを思い出す。結局今になってみると読んだことはまったく記憶にないので私にとっては早すぎた読書だったということになる。そこから考えて、本の出会いとは焦らず自分にとってちょうどいい時期が来るのを待つことも大事なのかもしれない、と思った。むしろこれから大江文学の「森」の中を散策する方が幸せだろう。
書類作成を済ませた後、ダスト・ブラザーズによる『ファイト・クラブ』のサウンドトラックを聴きながらその『大江健三郎自選短篇』を読み返してみる。そこで展開されている、叙情的に状況を描写するクールな筆致とそれを食い破るようにして展開されるホットな心情吐露に唸る。理知と熱情。両者がしっかり噛み合うことによって彼独自のユニークな世界が生み出されていると思った。そして「個人の実存の不安」と「世界の危機的な状況」が大江の中ではかなり密接につながっており、その結節点を体現して生きたのが大江健三郎だったのではないか。「死者の奢り」に見られるロジカルでクールな文体を使いこなした後に「セヴンティーン」のような次から次へとこぼれ落ちる心情吐露を書き切った彼はまさに「怪物」だったと唸る。こんな才能と同時代を共に生きてしまったのだな、と思った。ただ合掌するしかない。
思い起こせば物心ついて日本の文学を齧るようになったのが高校生の頃。そして大学に入り、大江がノーベル文学賞を受賞した頃のことを思い出す。その頃からもう大江は不動の評価を勝ち得た「クラシック」として私の目に映った。だが何かのはずみで初期の短編を読み、そのアクチュアルな面白さに唸らされた。「クラシック」なんてとんでもない、これは「パンク」だ、と思った。世界を絶望に満ちた眼差しで見つめて、しかし自らの中に不屈の闘志を燃やして対峙する。ジョイ・ディヴィジョンやザ・クラッシュ、あるいは(むろん「パンク」ではなくなるが)U2やマニック・ストリート・プリーチャーズの音楽と大江はけっこう近いところにあるのではないかと思う……が、こんなとぼけたことを考えるのは自分だけで充分かとも思う。これからしばらくは大江文学の「森」を散策してみようかな、とも思った。