跳舞猫日録

Life goes on brah!

2023/03/17 BGM: Hiroshi Takano - BLUE PERIOD

今日は遅番だった。朝、アリス・マンロー『小説のように』を少し読む。強烈な個性を感じる作風ではないな、と思った。むしろ繊細で上品な、細部まで丁寧に描き込まれた筆致でこちらに人生の喜びと悲しさを的確に伝えようとしているように映る。それは喩えるなら水墨画のようにも感じられる。好みの作風ではないとも思ったのだけれど、ウェルメイドな短編群であることは間違いがない。マイルドな中に棘を隠し持っていて、こちらの心に確かな何かを残すという作風だ。それは良質な映画をも想起させる類のものとして映った。具体的に誰の映画かと問われれば困るのだけれど、こうしたミニマルで大人びた清楚な作風は嫌いではない。この作家の本はもっと読み進めたいと思った。ジュリア・フォーダムの音楽を聴きながら読んだのだけれど、実に得難い時間を得たと思った。

ある程度までそのアリス・マンローの本を読んだ後、本を鶴見俊輔の対談集『学ぶとは何だろうか』に切り替える。冒頭の谷川俊太郎との対談が目を引く。2人はここで「偽善」について話している。どのようにして「正義を行わなければならない」という圧力に支配されることから抜け出し、「偽善」を貫くか。一見するとこれはパラドキシカルというかひねった言い回しに見えるけれど、私はTwitterなどで常に人々が「正義」を体現してそんな己を疑っていない状況を見るにつけ「正義」「善」の恐ろしさをまざまざと思い知らされる。私は自分が100%「正義」「善」の側に立てるとは露ほども思わない。私の中にあるのはもっと後ろ暗い情念であり欲望である。鶴見俊輔谷川俊太郎も、そうした人間の内側にある「原罪」を踏まえて考え、意見を述べていると私には映った。

対談のタイトルは「世界の偽善者よ、団結せよ」というものだ。私自身、時に「偽善」の側に立つことがあるのでこの対談が殊の外心に刺さるものとして映る。そして、鶴見俊輔を信頼できる思想家であると改めて思う。世に思想家/知識人は数多と居るが、往々にしてそうしたインテリゲンチャの言葉は「勉強の成果」として実存に根差さないもの、もっと言えば空理空論であったりすることが多い。鶴見は自身の波瀾万丈の思春期や活動家/アクティビストとして活躍した来歴に根差した言葉を用いて、大げさに言えば「血の言葉」で語ろうとしていると思う。そこが私のようなどん臭い人間には共感を持てるものとして映る。私はもう若くもないこの歳になって鶴見俊輔と出会い、彼から学び直して「第2の思春期」を生きようとしている。人生とはそんなものなのかもしれない。

日本は目下WBCに揺れている。確かなフィーバーが起こっているのを感じる。私は野球にはろくすっぽ興味がないので首を突っ込む気もないのだけれど、海外の友だちとチャットしていたら「WBCって何?」というリアクションが帰ってきた。こんなに盛り上がってるのは日本だけなのだろうか、と思う。もちろんそれがダメとかいう問題ではないのだけれど、こうした彼我の意識の相違は面白いと思った。そして、改めて英語をやっていてよかったと思う。少なくとも英語を学んでいるからこそそうした相違に気づくことができて、今一度日本の特殊さを(それを肯定する・しないは別として)気づくことができたからだ。何でもかんでも海外がいいと語るのは端的にはしたない振る舞いだと思うのだけれど、それでも現実はこうであるという認識は必要だと思うので敢えて書くことにした。