Back To Life

Back To Reality

2022/02/21

今日は午後から仕事だった。午前中、プレッシャーに苦しむ。なにも手につかない。本を読もうかと思っても読めないし、ドラマを観る気にもなれない。しょうがないのでclubhouseを少し覗いて他の人のお喋りを聞いて心を紛らわせた。私は夜型の人間なので朝は苦手なのだった。どうしたらいいのだろう……clubhouseを使って英語の練習をするなり、二度寝をするなりもっと気楽に過ごせばいいのかもしれない。結局Facebookの哲学のグループにエッセイを書いた。なにかを書いている時は気が紛れて楽になる。これからも書き続けたいと思った。

上原隆『こころが折れそうになったとき』を読む。自分自身とはなんだろう、という問いが改めて沸き起こってくる。私はこの私自身から離れて生きることはできない。どこに行こうと、この私はついてくる。かつて、私はそんな自分自身とは離れた空理空論を弄ぶ人間だった。抽象的な理屈を以て難しい問題を斬ることができる人間……だが、鶴見俊輔を読み始めたり実際に仕事に身を投じたりしているうちに、そんなスマートな理屈を弄ぶ自分は一見するとクールなようで、実はただの屁理屈屋ではないかとも考えるようになったのだった。

私はそんなに自分が頭がいいとは思わない。少なくとも、ひろゆき堀江貴文みたいになんでも即座に「論破」してしまえる賢さは持ち合わせていない。どんなことにしてもどん臭く自分で納得がいくまで考えて、「腑に落ちる」ところにまでいかなければ納得できない。鶴見俊輔を読んでいて勇気づけられるのはそうしたどん臭さを肯定されるからだ。鶴見俊輔もどん臭く「殺すな」という戒めを自分に課して戦時を生き延びた。頭だけで思想をコントロールするのではなく、身体を以て生きること。それが私にはリアルに感じられるのだ。

仕事前は過敏に物事を考えてしまう。本を読みながら、この本が私の一生を変えてしまうのだろうか、と不安になる……そしてそれは起こりうることなのだ。どんな本にも読まれるだけの価値がある。それが愛国ポルノだろうとなんだろうと、人生を変える契機を内に秘めている。だがその場合、本の中の深淵な思想が外部から私の人生を変えてしまうのか、それとも私の中にあるなにかが本に反応して自分自身を内発的に変えるのか……やれやれ、今日もまた考えすぎてしまった。あまり考えすぎず、「だいたい」というか曖昧なものを曖昧なままに処理して生きたほうがうまくいくのはわかっているつもりなのだけれど。