跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/08/26

BGM: Chara "罪深く愛してよ"

今日は遅番だった。朝、clubhouseでジュディスさんと話す。いつものように昨日の日記を朗読し、そこから私やジュディスさん自身に内在する不安について語った。ジュディスさんは瞑想や自分との対話で不安に対処しているという。私の場合は仕事から生じる不安に悩まされているので、とにかく不安に囚われてしまっても職場に行って、最初の30分だけでも体を動かしてみるという対処法を採っている。もちろんこれは問題もあるだろう。体や心が「休みたい」というサインを出しているならそれに従うのが理想的なのは間違いない。だが、私はいつの頃からかそうしてフィジカルに不安と付き合う術を学んだように思う。

その後イオンに行き、エーリッヒ・フロム『愛するということ』を読み始める。フロムのこの本はかなり昔に書かれたものらしいが、今でもヴィヴィッドにこちらの心に訴えかけてくるものがある。人間の心の中には父親的な要素と母親的な要素がある。父親的な要素は厳しく規範や倫理を問う存在であり、母親的な要素は全的にこちらを受容し愛する存在である。この両者は矛盾しているように映るかもしれない。だが、そうした矛盾がひとりの人間の中に備わっているのが本来の人間のあり方なのだ、とフロムは言っているように感じた。

もちろん、実際の父親と母親はそんなにきれいに割り切れるようなものではないだろう。そのあたりで確かに問題を孕んだ分け方なのかもしれないが、大事なのはあくまでひとりの人間の中の矛盾を受け容れる所作なのだと思った。昨日書いた、私の中に仕事人格と私的人格が存在してそれらが矛盾する考えを持つということもこの理屈で説明できそうな気がした。私の中には(あるいは人間誰しもが)矛盾があり、それゆえに深みを備えた存在でありうる。ああ、人とはこうして俯瞰してみると本当に奥が深い存在だ。この件ではDiscordでもアドバイスをいただいたので私もあれこれ考えたが、ようやくスッキリしたように思う。

私は人を愛するということがどういうことなのか、情けない話だが(あるいはありふれた話だが)わからなかった。30代になって人から愛された時も、私はその愛を不気味なものと捉えてしまい相手を落胆させたことがある。当時は私自身が自分のことを愛されるに足るとも思っていなかったし、それゆえに自分のことを大事にもしていなかったのだ。40代になり、大事な人ができた。その人を通して私は自分のことを受け容れることを学び、優越感など持たなくても自分自身は充分尊い存在であることを学んだ。ああ、遅すぎる「目覚め」だった。だけどこれから、私の前にまたソウルメイトが訪れるかもしれない。その時、その人にもっと成熟した私自身を見せられればとも思っている。