単純な生活

Life goes on brah!

2024/10/09 BGM: ピチカート・ファイヴ - メッセージ・ソング

今日は遅番だった。今朝、例によって朝活の一環としてイオンに行きそこでつねづねぼくが畏敬の念を以て読み込んでいる鶴見俊輔という哲学者の著書『期待と回想』を少し読み進める。この本の中で鶴見は、自身の論理的思考・著述を始める際に「マチガイ主義」つまり「私は間違っている(I am wrong)」というスタンスをくずさないと語っている。そして同時に、おそらくは鶴見自身の幼少期のころから培われた強迫性のアイデア「私は悪だ」という考え方をも保持し続けているのだと。ややこしい論理以前に、ぼく自身つらい幼少期を経験していまも「なんでこんなにぼくは頭がおかしいんだろう」「アホだなあ」とつねづね自虐してしまうクセがあるのでこの態度にシンパシーを覚える。

過去について思い返すと、このぼくの発達障害の特性についてぼく自身でさえまったくわかっておらずしたがってこの性格や振る舞いゆえに学校で叱られ、なじられ……「おまえは間違っている」「変人だ」「ひねくれものだ」なんて言われたりしたのだった。当時(ああ、あのラブリーな少年時代)外に位置するどんな残酷な他者たち、他人たちに対しても拮抗というか対抗できるロジックを持っていなかったので、ただ不条理なシチュエーションに延々耐えながら「ぼくって間違っているのだろうか」と繰り返しつぶやいていたのだった。

読者のみなさんからぼくがどう映るかわからないが、少なくともぼくは自分自身をついつい追い込んで批判することを止められそうにない(ただこれは「自罰的」というのとも違うとぼくはにらんでいるのだけれど)。強い強迫観念にとらわれつつ自分自身のあいまいなアイデアを吟味し続け、この脳でぼくなりに(曲がりなりにも)論理的に解析する。ぼくは発達障害者で、だからなのかあいまいな部分が納得できなくてなんでもかんでも2つに単純に・ざっくりわけていくのが好きだ(白と黒、敵味方、などなど)。だからこんな考え方がぼくの強迫観念に拍車をかけるのだろう。だけど容易にわかるように、ぼくは機械ではない。心のコアの中ではカオス的な思いが煮えたぎっており、未分化のアイデアがどろどろスープあるいはマグマのごとく湯気を立てている。

ときどき……とりわけ、こんな鶴見俊輔の本のようなすぐれた哲学書を読むと、ぼくはあまりにも単純でアホくさい疑問を考え始めてしまう。まさに「質問のための質問」「時間のムダ・暇つぶし的な質問」として当たり前の次元にまで問いが向くのである。「戦争より平和がいいのはなんでだろう」「戦争はほんとうに悪なんだろうか」みたいな。言うまでもなく、ぼくは平和を選ぶ。戦争はあらゆる人の人生を滅茶苦茶にすると信じる(文字どおり「あまねくあらゆる人の人生」、つまり独裁者や軍人といった人まで含めて)。だが、日記でさんざっぱら書いてきたとおりぼくはがんこで古くさい思考機械なので(だからあまりにも怠惰というか「惰性で」考えてしまうので)、鶴見俊輔なんか読んでいるとそんな自分の怠惰きわまりない思考の危険性に気付かされてくれる。気をつけないといけない。

それにしても、ぼくは毎日毎日まあ自分でもあきれるほどいろんな哲学的なことを書いているわけだけれど、基本的には研究者ではありえない。たぶんに探究心はあるかもしれないにしても、ただの名無しの労働者・普通の小市民のつもりである。こんなむずかしいことなんて考えなくてもいいのである。前に、30代のころのぼくと伴走してくださってぼくを導いてくださったメンターはこうした考え方を「現実逃避」とおっしゃった。シビアで残酷な現実からただひたすら(カフカのように?)退避して、自分だけのテリトリーを守りたいのだ、と。わかる。いまだってそうかもしれないが……なら、ぼくはまだ間違っているのだろうか?(AM I STILL WRONG?)