跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/15

いつの間にか毎日日記を書く癖がついてしまったのだが、そもそもどうして書くのだろうか、と思った。なにも表現しない、なにも書き残さない人生。別の言い方をすればSNS自己実現を試みない人生。それもまた尊いものだと思う。だが、私はブログで日記を書き続ける。なぜなのか……それはきっと「なぜ生きるのか」という問いと同じなのかもしれない。一見高尚なように見えて、実は空疎でしかない問い。少なくとも私にとって書くことは意義や意味なんて考えずに「ついつい」やってしまうことなのだ。ただ気持ちいいから、書かずにはいられないから書く。それでいいのではないだろうか。

昼に社食でご飯を食べながら、ふと思い出したことがあった。主にクラスメイトから、「近づくな。バイ菌が伝染る」と言われて隔離されたことがあった。まあ、子どもの頃の他愛もない「いじめ」の話ではある。誰もが似たような思い出を持っているだろう。だが、その体験があることで私は鍛えられたかもしれないと思う。自分はなにをどうしたっていじめられる人間なのだ、だからそのいじめられっ子としての矜持を以て(?)生きていこう、と。おかしなもので、そうして今なおいじめられっ子としての矜持に沿って生きていけばいくほど私は人と繋がれて、親しまれるように思う。

鶴見俊輔の本を読んでいると、そうして人の集まる場所(難しく言えば「共同体」)の中で異物として(鶴見の言葉を借りれば「悪人」「タヌキ」として)生きることの美学が開陳されているようで、私にも共感できるところがあるなと思う。鶴見もまた少年時代は不良で、万引きを繰り返し劣等生として過ごしていたという。私は不良だったわけではないが、しかし学校で教師が教える授業にもなじめずクラスメイトとも衝突を繰り返していたので、ある種のエイリアンではあったのかもしれないな、と思った。そんな自分を思うと、鶴見と「合う」理由も見えてくる。

今年は鶴見俊輔生誕100年だという。そんな年(ちなみに水木しげる山田風太郎の生誕100年でもある)、鶴見俊輔を読み始めたことはなにかの奇縁かもしれない。やれやれ、私の読書はついついマイナーに走ってしまう。それは他人との会話についていくための「基礎教養」としてではなく、私の魂を救うための(!)作業なのだから仕方がない。同じ理由で私はビリー・アイリッシュを聴いてトレンドについて考えるのではなく、ブラーやオアシスを聴いて自分の心を癒やすだろう。そうして個人的な救済に徹すれば徹するほど人からは「ユニーク」と言われるような気がする。これもまたおかしな話だ。