跳舞猫日録

Life goes on brah!

2022/02/06

今日は休みだった。朝、イオンに行く。特になにか買うでもないが、グループホームに居ても落ち着かなかったのだ。関川夏央『「解説」する文学』を読む。やはり渋い仕事だと唸る。司馬遼太郎藤沢周平のような文学と愚直に対峙し、そこから真摯に言葉を引き出す。頭でっかちな文章ではなく、身体で(内田樹的な表現かもしれないが)言葉を綴っている人という印象を受ける。関川夏央の本は実を言うと時代遅れではないかと勝手に思って読まず嫌いで通ってきていたのだけれど、これを機にきちんと読もうと決意した。

関川夏央十河進片岡義男といった書き手の書いたものをここ最近読んでいるのだけれど、改めて文章から感じる「男臭さ」について考えさせられる。いや、もっと言えば「オヤジ臭さ」「加齢臭」といったものについて。もちろんこれらの言葉を使うのは悪い意味ではない(と言っても信じてもらえないかもしれないが)。私の書くものはどうかな、と心配になった。いつまでもフレッシュさを保ち続ける、というのもなんだか恥ずかしい。きちんと歳を取って渋くなるのが理想ではあるのだけれど、私は独身で子どもも居ないので苦労を知らない、それ故に幼い人間ではないかとも思うのだった。

私は子どもの頃、特になりたいものというのがなかった。強いて言えば作家になりたかったが、もちろん食べていくためにはとりあえずの職に就くことが必要となる。だが、どんな職が自分に向いているのか、あるいはどんな職に就きたいのか自分でもさっぱりわからなかった。今なお「この職が天職なのだろうか」と思うことがある。私はその意味で、自分の職に居場所を見い出せない「子ども」なのだろうと思う。それもあって、人一倍歳を取ることに拘泥してしまうのだと思う。自分の幼さが嫌になることもあるが、それもまた自分らしさと受け留めるべきなのだろうか。

夜、関川夏央『文学は、たとえばこう読む』を読む。そして十河進『映画がなければ生きていけない 2007-2009』を少し読む。やれやれ、本を読むという悪癖から遂に自分は無縁になれない。子どもの頃、スポーツがロクにできず女の子の前でブザマな姿を晒した思い出が蘇る。それですっかり色恋沙汰と自分とは無縁なのだと思い、読書に専念して一生を費やそうと思ったことを……それもまた「ガキだったなあ」で終わる話なのだが、ではこれからどう生きれば「ノーマル」になるのか皆目わからない。わからないままこれからも鶴見俊輔を読んで過ごすのかな、と思うとなんだか恥ずかしい。